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同調圧力から一歩抜け出す勇気を持てばきっと社会は変わる! 長野パラリンピック金メダリスト マセソン美季は教育を通じて真の共生社会を目指す

同調圧力から一歩抜け出す勇気を持てばきっと社会は変わる! 長野パラリンピック金メダリスト マセソン美季は教育を通じて真の共生社会を目指す

IOC(国際オリンピック委員会)・IPC(国際パラリンピック委員会)教育委員、日本財団パラリンピックサポートセンター プロジェクトマネージャー マセソン美季

WOWOWとIPC(国際パラリンピック委員会)の共同プロジェクトとして制作された、パラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ『WHO I AM』。本作の映像が、子どもたちにパラリンピックを題材に共生社会への気づきを促すことを目的とした、IPC公認の教材「I'mPOSSIBLE (アイムポッシブル)」にも使用されている。

この教材およびWOWOWとのコラボレーションの“仕掛け人”は、1998年の長野パラリンピックのアイススレッジ・スピードレースで金メダル3枚、銀メダル1枚を獲得したパラリンピアンで、現在は日本財団パラリンピックサポートセンターのプロジェクトマネージャーも務めるマセソン美季さん。

彼女はどのような思いで「I'mPOSSIBLE」を手掛けたのか? そして日本とカナダの自宅を行き来しながら活動する彼女の目に、パラリンピックの開催を控えた日本の社会はどう映っているのか? 波乱万丈という言葉がふさわしい彼女の半生と共にたっぷりと話を聞いた。

生まれて初めて出会った、すんなりとは出来ないスポーツ

――マセソンさんは教師を目指し大学に進学され、大学1年生の時に事故に遭われたそうですね。その後、アイススレッジ・スピードレースの選手になった経緯について教えてください。

事故に遭った当時は、現在ほどパラリンピックというものが一般的に知られておらず、私自身、体育の教員を目指していたにもかかわらず、障害のある人たちにとってのスポーツについて、まったくと言っていいほど、何も知りませんでした。

だから、自分自身が事故に遭った際に「スポーツができなくなってしまった」と思いました。「歩けなくなった」ことよりも、そちらのほうがむしろ大きかったです。すごくショックでしたが、病院の体育館で車いすバスケットボールをやっている人たちを見て、「カッコいい!」「すごい!」「速い!」といった形容詞が次から次へと飛び出てきて、その時にこれまで障害のある人たちに対して、こんなポジティブな形容詞を感じたことがなかったことに気づき、「自分もこういうことをすればいいんだ!」と安心できたんです。それで何かスポーツをしようと思ったんです。

障害を負って初めて外出許可が下りた時に、主治医の先生が「泳ぎに行くぞ!」と言い出して、自宅に帰るのではなく、プールに連れて行かれたんです(笑)。大学の遠泳実習の後だったので、競泳用の水着の日焼けの痕があって「こいつ、泳げるんだな」と先生は思ったらしいんです。泳ぎたい気持ちはありましたが、その時は私もまだ若く、動かなくなった身体を水着で他人に見せることになぜかすごい抵抗がありました。今は全然気にしないんですけどね(笑)。水の中に入れば自由になれる感覚は新鮮でした。でも、水泳ではなく、服を着てできるスポーツにしようと思ったんです。

いろんなスポーツを検討した結果、陸上を始めました。数年後、長野のパラリンピックに向けて、選手を探す"選手発掘プログラム"のようなものがあり、陸上や車いすバスケの選手を冬の競技に転向させようと冬の競技を試す機会がありました。「大学生? じゃあ時間もあるでしょ?」と誘われて始めたんです。

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――アイススレッジ・スピードレースは氷の上を滑るスケートですが、腕力が必要なかなりハードな競技ですね。

私は小さい頃からスポーツが得意な女の子でした。練習しなくても走れば速いし、ボールを投げれば遠くに飛ぶタイプですね(笑)。でも、アイススレッジ・スピードレースはまっすぐ滑ることすらできず、初めて「できない」と感じたスポーツだったんです。「面白い」と思った記憶はないんですが、このままやめて「逃げた」と思われるのが悔しくて、とりあえずまっすぐ滑れるようになるまでやろうと。

ただ、まっすぐ滑れるようになると速くなりたいと思い、速くなると相手に勝ちたいって思うようになり...気づいたらパラリンピックに到達していた感じです。あの競技は(スレッジに)ブレーキがついていなくて、ストックが命なんですが、まっすぐ滑れるようになって調子に乗ってスピードをあげたものの、慌ててしまい、リンクの周りのアスファルトに乗り上げてしまったんです。スレッジには1本20万円もする刃が2本ついているんですが、それをだめにしてしまい、監督がそれを見て私に「このままやめないよな?」って(笑)。そこで「はい」って言っちゃったのが始めるきっかけですね。

――そこからパラリンピックに出場することになったのは?

同じチームに土田和歌子選手や加藤正選手といった、1994年のリレハンメルパラリンピックにも出場していた選手がいて、彼らが取材されることがあったので、パラリンピックを勝手に意識させられる環境ではありました。でも「本当に私、出られるのかな?」という感じで、直前までどうなるか分からない状況でした。

本人もびっくりの金メダル3枚! 「気持ち次第で人はこんなに変わる!」

――それが出場してみると、金メダル3枚、銀メダル1枚獲得の大活躍でした。

びっくりですよね。私もびっくりでしたし、監督もびっくりしていました。アイススレッジ・スピードレースは400メートルのアイスリンクを反時計回りに回るんですが、私はコーナーが得意ではなかったんです...。コーナーを使用しないのは直線勝負の100メートルだけでしたので、最初から100メートルに懸けていました。

100メートルが最初の競技だったんですが、あれほど大勢の観客の前で滑ったことがなく、競技場に入ったとき、普段はまったく緊張しないのに、初めて緊張してしまったんです。競技がどう始まってどう終わったかも覚えていなくて、気づいたらゴールしていて、電光掲示板に記録が出て「あ、終わっちゃった...。もう一度やりたい」という気持ちでした。

結果的に銀メダルで、最初は「とりあえずメダルも獲れたし、まあいいか」という気持ちでしたが表彰式で、優勝選手の国の国歌が流れて、国旗が一番高いところに行って...いつも一緒に練習していた、かわいいノルウェーの女の子が金メダルで、私の方を見ながら国歌を歌って、憎たらしいぐらいすごく満足げな顔をしてたんですよ(笑)!

(取材の)ミックスゾーンに行っても、記者はみんな彼女のほうに行くわけです。スポーツの世界ってやっぱり1位にならなきゃダメなんだなと思いました。

同じ日の3時間後くらいに500メートルのレースがあり、それくらい時間が空いていると、普通はみんなアップしたり、音楽を聴いて集中力を高めたり、トレーナーさんに体をほぐしてもらったりするんですが、私が何をしたかと言うと......昼寝をしたんです(笑)。

――そんな緊張感のある状況で寝られるんですか?

一番自信のあった100メートルが終わったので「もう終わったー!」という気分だったんですよね。私、今でもその後のメダル獲得はその昼寝のおかげだと思っています。夢でさっきの100メートルのレースを見てて、現実では負けたのに、夢の中では理想的ないいレースをして、金メダルを獲って首にメダルを掛けてもらう!という時にトレーナーに「いつまで寝てるんだ! 行くぞ!」と起こされたんです(笑)。

夢のおかげで、気持ちが金メダリストになっていて(笑)。100メートルの時は応援の声にやられちゃったんですが、競技場に入って観客の声を聞きながら「あそこにお母さんがいる」とすごく冷静に見ることができて。

普段はスタートラインに着いた時「これはやっちゃいけない」というリストを頭の中で反芻していたんですが、その時は「もう大丈夫。さっき夢の中で滑った通りにすればいいから」という何の心配もしてない気持ちで。そうしたら本当に思った通りのレースができて、金メダルが獲れて、ミックスゾーンに行ったら「松江選手!(※マセソンさんの旧姓)」とみんながワーッと来て「よし! きたきた!」という感じで(笑)。

表彰式で「君が代」が流れた時もさっきのノルウェーの女の子がいたので、歌いながら彼女を見て...気持ちよかったですねぇ、これが(笑)。

コーチからも「お前どうしちゃったんだ?」と言われるような調子で、翌々日に1000メートルがあったんですが、その時もいいレースだけをイメージして、失うものは何もないし、何の心配もなく臨んで金メダル。最終日も「二度あることは三度ある」という感じで、一番苦手だった1500メートルで世界新記録を出しちゃったんです。

いま、学校を回って子どもたちの前でいろんなことを話す立場になりましたが、そこで言うのは、昼寝の後と前で筋力が急激にアップしたわけでもなくて、ただ気持ちが変わっただけなんだと。気持ち次第でこんなに変わるんだよ、と伝えています。金メダルを獲れたことより、その過程でそういうことに気づけたことが、すごく私にとって大きかったですね。

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パラリンピックの選手村で感じた理想の社会の実現可能性!

――いま、「気持ち次第で変わる」ということに気づけたという話がありましたが、パラリンピックに出場したことで得られたこと、そこでの経験がマセソンさんにどんな影響を与えたかを教えてください。

私と同じ競技の選手は、基本的にみんな肢体不自由があって、車いすに乗っていたり、義足や装具を使ったり、そういう人たちといつも一緒に練習していました。でも、パラリンピックの会場や選手村に行くと、本当にありとあらゆるタイプの障害の選手がいるんです。それまでに自分が見たこともないような"規格"の人たちと、文字通り寝食を共にするわけです。多種多様な人たちがこうやって普通にいるってすごいなと思ったんですよね。

一般の社会の中にいると、人の視線が痛かったり、他の人と違うと目立ってしまったりすることもあるけれど、みんなが違うのが当たり前で、それが私には新鮮でした。環境や受け入れ体制が整っていれば、こんなに居心地の良い空間が出来上がるんだ!と気づきました。そして少し不便なことや困っていることがあっても、状況を読み取る能力さえあれば言葉なんて関係ないということもわかりました。

でも選手村を出て社会に戻るとそれはなくなってしまう。そういう意味で"異質"な空間ではあったんですが、実現可能な部分もあることに気づき、そういった意味でも大きな影響を受けましたね。

――当時といまではパラリンピアンに対する世間の反応、マスコミの扱いなどもかなり変わったかと思います。

ファンは増えましたよね。"にわかファン"と"コアなファン"の割合は分かりませんが(笑)。注目されるのは良いことだと思います。長野の頃は"パラリンピック"と聞いてもみんなぽかんとしていましたが、いまは「ボッチャ知ってます!」「車いすテニスの国枝慎吾さん、知ってます!」といった感じで競技や選手の名前が出てくるようになりましたね。当時はありえないことでした。今は、パラリンピックという言葉を知らない、聞いたことがないという人はほとんどいないでしょうし、露出の機会は圧倒的に増えましたね。

ただ、"理解"が浸透しているか? といった意味ではあまり変わっていないのかもしれない、とも思います。まあ、私は普段から懐疑的な目でものを見ちゃうのですが、私自身が昔と言っていることがあまり変わってないので、案外、社会も変わってないってことなのかもしれないなと。

――とはいえあの時、日本(長野)でパラリンピックが開催されたというのは、やはり社会にも大きな影響を与えたのでは?

そうですね。パラリンピックの"報道元年"が長野大会が開催された1998年と言われていますし、スポーツ新聞の一面を飾ったりすることもありましたしね。当時はカメラマンの中には「車いすが映っても大丈夫ですか?」って訊いてくる人もいたんですよ。こちらは質問の意味がわからず「え?」という感じだったんですが、報道する側にとっては、障害の部分を映してもいいものなのかわからず、気を使って確認をしていたんでしょうね。そういうことが今はなくなっているのは、見る側の抵抗や、伝える側の躊躇もなくなったということなのかなと思いますね。

「年金受給者ではなく、納税者になりたい」――"明るい未来"を求めてアメリカへ

――その後、アメリカのイリノイ州立大学に留学されたそうですが、渡米のきっかけは?

少しだけ陸上競技もやっていたんですが、大分国際車いすマラソンという大会があって、そこで海外から来た選手たちと触れ合う機会があったんです。当時、私は大学生で、その後の進路や就職について考えていた時期だったので、海外から来た選手たちに片っ端から「あなた、職業は?」と聞いて回ったところ、「僕は航空管制官だよ」とか「私は建築家だよ」「リゾートホテルのオーナーだよ」といろんな職業の人がいたんです。

でも当時、日本でスポーツをやっていた私の知っている(障害のある)人たちは、経理や事務仕事の人が多かったですし、年金暮らしの人もいました。私がワクワクするような職種の人に出会っていませんでした。私は年金で暮らすのではなく、タックスペイヤー(納税者)になりたいと思い、可能性を探しに外国に行こうと、パラリンピアンをたくさん輩出しているイリノイ州立大学に行くべく奨学金などを探しました。

――もともと、教員を目指して教育学部に通われていたんですよね? そのまま教員になるという道はなかったんですか?

体育の教員免許は取ったんです。「体育の先生になりたいです」と言ったら、(大学の)先生たちが「やったらいいじゃない。そのかわり『体育は見学』なんて許さないからな」と言われて、ソフトボールもカヌーもテニスもひと通り、みんなと同じようにやりました。

これは余談ですが、正直、その時の仲間には「私がいるせいで迷惑をかけている」という気持ちが強かったんですが、卒業後、みんなが(教職の)現場に出てからお礼を言われるようになったんです。「あの時、美季と一緒にいろんな工夫をしたり、答えがない問題をみんなで考え抜いたりするくせがついたので、それが現場ですごく役に立っている」って。

大学も古い校舎で、どの教室に行くにも誰かの手を借りなければならず、申し訳ない気持ちだったんですが、体育会の学生は女子も力持ちです。居合わせたクラスメイト達は、嫌な顔もせず「筋トレにもなるしちょうどいいや」って言いながら手を貸してくれたのは、本当にありがたかったです。

――教育実習も受けて、免許を取られたんですか?

実習は3週間でした。「体育の教育実習の先生です」って子どもたちに紹介されて、車いすに座っていると「え? 先生、どうしたの? ケガしたの? いつ治るの?」って心配されるんですが、「治りません」と言うとさらにドン引きされて(笑)。

「え? それで体育の先生できるの?」と言われましたが「できると証明するためにここに来ました」と、初日から生徒の100メートルのタイムを記録して「絶対にみんなの記録を伸ばします」と宣言し、実際に全員の記録を更新させました。そこで「車いすでも体育の先生をできるんだね」と言ってもらえて「よしっ!」と思った一方で、体育教師としての将来像はイメージできませんでした。

その先のことを考えると、免許があるから雇ってもらえるわけでもなく「車いすなんですが、大丈夫ですか?」といったやりとりが必ず生じるでしょうし、そういうのが煩わしいという思いもありましたし...。

もうひとつ、当時、私は(競技の方で)"若手の新人"と言われていましたが、障がい者スポーツをやっている若い選手があまりいなかったんです。それは指導者がいないからだと考え始めていて「だったらイリノイの選手たちが主催するジュニア向けのキャンプの内容も知りたいし、実際に見てみたい」という思いもあり、イリノイ州立大学に行くことを決めたんです。そこで勉強して将来、誰かを育てて、その人に金メダルを獲らせるという夢があってもいいのかなと。

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バーで酔っぱらう電動車いすの学生を見た衝撃! アメリカで気づかされた「私にも選択肢がある」という当たり前のこと

――アメリカに行ってみて感じたこと、日本との違いなどについて教えてください。

日本では「消去法」で生活することに慣れていました。「今日、ごはん行こうか?」「イタリアン食べたいな」「いいですね。あ...でも、あそこのイタリアン、階段しかないんですよ。隣の中華なら大丈夫そうです」「じゃあ、中華にしましょう」といった感じで、"やりたいこと"をやるというより、周りに迷惑を掛けずにできる範囲でやれることをやる――車いすでもできることを探すクセがついていたんですね。

でもアメリカに行くと「で、美季は何がしたいの?」と聞かれて、私にも選択肢があるんだ、私がやりたいことを「やりたい」と言ってもワガママに思われないんだってことに気づいたんです。

実際、大学には首から下が全く動かないような重度の障害がある人たちもサポートを受けながら寮に住んでいましたし、口でジョイスティックを動かして生活している人が、街のバーに飲みに行ったりするんです。そこで女の子に「ちょっとストローさしてくれる?」なんてお願いして仲良くなって、ヘベレケになって、千鳥足ならぬ千鳥車いすで寮に帰っていくんですよ(笑)。

それを見て「障害の有無ではなく、その人が何をやりたいのかという意思の強さで進む道が変わっていくんだな」と思ったんですが、同時にそれを受け入れる社会も準備できていなければいけないし、日本で同じことができるかと言うと、まだ難しいだろうなと。

日本で諦めた教員の夢をカナダで実現 マイノリティの障がい者を喜んで迎え入れる社会

――その後、日本では一度断念した教員への道に、現地で再び進むことを決めたそうですね?

私の夫はカナダ人なんですが、結婚後の将来について話をしていた時、彼から「日本に住みたい? それとも(彼の出身地の)カナダに住みたい?」と聞かれ、私は迷わず「カナダ」と答えたんです。カナダにいる時のほうが、自分が自由でいられる肌感覚、居心地の良さがあったんです。と同時に、母国日本で暮らしたいと思えなかった自分にショックも受けました。

カナダで暮らすようになり、カナダ人の友人たちとのホームパーティーで「美季は子どもの頃、何になりたかったの?」と訊かれ、「先生になりたかったんだけど、車いすだしね...」と答えたら、みんなぽかんとして「何で?」「わけがわかんない」って。私は「車いすだから先生にはなれない」と勝手に思い込んでいて、でもそうではないことに気づかされて「先生になる道はあるのかな?」と調べて、その後、教える機会を模索し始めました。

履歴書に「車いす」と書く欄もないですし「このこと、いつ言うべきなのかな?」と心配していましたが、最終面接に行っても車いすを使っていることは全く問題視されなくて、むしろこっちが不安になったぐらいでした。

価値観の違いを大きく感じました。「子どものうちに多様な人に触れていればいるほど、子どもたちの学びの質も高まり、幅も広がるので、自分とは違う人たちと触れ合うのが大事なんだと。あなたはカナダでは民族的にもマイノリティで、おまけに車いすだからウェルカムよ!」と。そう言われると、こっちも胸を張って働けますよね。「違いがあるからいい」という価値観が根付いていることをカナダで感じましたし、社会の一員として堂々と働く姿を見せることで、そういったことを伝える側にもなれるということで嬉しかったですね。

"磁石"が人生の転機を引き寄せる! 銀行の窓口スタッフから国連機関、日本財団パラリンピックサポートセンターへ

――現在はIOC(国際オリンピック委員会)とIPC(国際パラリンピック委員会)の教育委員、そしてパラサポ(日本財団パラリンピックサポートセンター)の推進戦略部でプロジェクトマネージャーを務められていますね。どのような経緯でパラスポーツと教育の架け橋となるような仕事に就くことになったのでしょうか?

英語は話せるものの、やはり訛りもあります。移住した当時は、年配の方と話すのが難しい場面もあって、かといっていまさら学校に行くのもな...と思っていて、そこで思いついたのが、銀行の窓口業務で働くということでした。銀行の窓口に来るのは年配の方が多いですし、自分のお金のことでしたらみなさん、真剣に聞いてくださるじゃないですか(笑)? しかも(車いすの)私の窓口は、みんなイスに座るので、長話をするんですよ。

そこでお給料をもらいながら会話の練習をしていたんですが(笑)、お客様のひとりに「きみはここで仕事をしているだけの人間じゃない。履歴書を持って来なさい」と言われ、支店長さんからも「あの人が言うなら大丈夫」と背中を押してもらい、その方の紹介で国連の外郭団体の仕事をいただいたんです。それで国連に出入りするようになったんです。

パラリンピックサポートセンターは、東京大会に向けてパラリンピック競技団体の基盤強化のサポートやパラスポーツ普及のために、日本財団の支援により設立、2015年の5月に活動を開始しました。そのニュースで笹川陽平会長を見た数日後に、国連の同じ会議室に笹川会長がいらっしゃったので、「はじめまして。私、パラリンピックに出たことがありまして、どうしてもお礼が言いたかったんです」と挨拶をしに行ったところ、会長のお付きのフォトグラファーの方に「あれ? 美季ちゃん?」と声を掛けられました。その人は、私が現役時代、某テレビ局のディレクターとして取材をしてくださった方で、「パラサポが立ち上がるので、いろいろ聞きたいこともあって、美季ちゃんと連絡とりたかったんだよ」と言われ、その場にパラサポに出向することが決まっている方もいて「話を聞かせてください」と言われ、最初は働くということではなく、私の知っていることで役に立つことがあればという感じでした。

その後「美季さん、やるとしたらどんなことをやりたいですか?」と訊かれて「私はやっぱり、教育に携わることがしたいと思っています。教育プログラムのようなものを、パラサポでもぜひやってくださいよ」なんてことを言っていたら、改めて声をかけていただきまして、いつのまにかそういうプログラムに関わらせていただくことになりました。なんか、つながっていくんですよね、私の人生(笑)。

夫は私のこと「磁石」って呼ぶんですよ(笑)。「キミは好きなことだけやってれば、必要な人やものがくっついてくる」って。ただ、目の前に好きなこと、やりたいことがあっても、本当にやっていいのかどうか慎重に考えました。仕事を引き受けるとなると、安定したカナダでの仕事を辞めて、日本とカナダを行ったり来たりすることになるわけで、さすがに私も2人の子どもの母親ですし、しょっちゅう家を不在にするのはどうなのかな? と思い、家族会議をしました。夫からは「相談する時点で、行きたいと思っているんでしょ?もし断ったら、ほかの人がその仕事を引き受けて、その人が中途半端なことをしたら、ずっとここでイライラするんでしょ? だったらキミがやりなさいよ」と言われまして...(笑)。子どもたちもニコニコしてるお母さんがいい、と言ってくれました。

彼は「思い切りいい仕事をしてこい」と言ってくれて、家族の協力もあってこうして活動できています。

子どもたちには寂しい思いもさせてしまっていますが、日本に一緒に来ると、色々感じることがあるみたいです。ある時、上の子が「日本に来るとお母さんしか車いすの人がいないね」って言ったんです。「日本はテクノロジーが進んでいるから、みんな治してもらったんじゃない? お母さんも治してもらったら?」って下の子が。そんな息子たちの言葉で改めて、カナダで生活していると、障害のある人が社会の中にいるのが普通で、いないのが違和感なのだと思いました。日本、特に東京の都心に車いすで外出する時の心の負担みたいなものに気づかされたりしています。

私は海外に出たことで「障がい者が外出しづらいことが当たり前ではない」ということを知ることができましたし、その経験をもっと活かして活動すべきなんだなと思っています。

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差別や偏見を生むのは教育、それを取り除くことができるのも教育 子どもたちを通じて社会変革を!

――IPC教育委員でありパラサポのメンバーとしての仕事の中で、「I'mPOSSIBLE」という国際パラリンピック委員会公認の教材の開発・普及に力を入れており、全国3万6000の学校に無償で教材を配布されていますね。子どもたちにどんなことを学び取ってほしいと思って作られた教材なのでしょうか?

国際パラリンピック委員会は、競技の普及はもちろん、スポーツを通して"インクルーシヴな社会"を実現させましょうという目標を持っています。私自身、日本に帰ってきて一番イヤなのが、車いすに乗っているというだけで区別されてしまうことです。私は立って歩けなくなったので、移動に車いすを使っているだけ。乗っている私は何も変わってないつもりなのに、車いすに乗った途端、なんとも言えない見えない"壁"のようなものができたのを感じるんですね。

なんで車いすに乗っているだけでこんなに変わってしまうのか? 差別や偏見を生み出しているのは何なのか? 人権教育啓発推進センターの横田洋三理事長にご意見を伺ったら、先生がスパッと「教育です」とおっしゃいました。私は教育現場の人間でしたので、そう言われてすごくショックだったんですが、逆に教育で差別や偏見を少なくもできるのではないかと思ったんです。

パラリンピックが開催されることで、人々の意識や社会に変革を起こすまたとないチャンスが到来しました。これを使わない手はないなと思ったんです。私が今まで考えてきたこと、経験してきたことをうまく伝えられる教材を作りたいなと。

カナダでは街で普通に多様な人を目にします。それ以外にも例えば銀行のCMやお菓子のパッケージにごく普通に車いすの人が映っていますし、学校から配られるプリントのイラストに、アイスホッケーをする子どもと一緒にパラアイスホッケーをしている子が描かれたりしています。日本は、障害のある人を見る機会、接する機会が少ないので、だったら学校の教材で子どもたちに触れさせるのが一番近道なのかもしれないなと思ったんです。

――具体的に教材を作り、展開していく上で気をつけたこと、大事にしたことはどんなことですか?

先生たちの声をリアルに活かすことですね。私たちが「伝えたい」ことを教材にするのは簡単ですが、いくらいいものを作っても、先生たちが現場で使ってくれなかったら意味がありません。ですから校長先生や、教育委員会の人、そして現場の先生たちと、階層の異なる教育関係者の方たちにヒアリングをし「これじゃ使えにくいよ」「これ全然現場のことが見えてない」といった先生たちの声を教材に反映していきました。

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写真提供:I'mPOSSIBLE日本版事務局

――現場の先生たちや授業を受けた子どもたちからの反響はいかがですか?

先生たちは、自分の知らないことを教えることに抵抗があるようですが「普段から、子どもたちと接している先生がリアルな言葉で伝えてくれるから子どもたちに伝わるんです」と言うと「なるほど、じゃあやってみます」とおっしゃってくださいます。それで、実際に授業をやってみると「子どもたちがすごく変わるんです!」と言っていただけるんですよね。一度、使ってくださった先生は、とりこになってくださいますね。

――子どもたちはもちろんですが、大人の側にとっても気づかされる部分が大きそうですね。

そうなんです。パラリンピック教育って「リバース・エデュケーション」とも表現されていて、知識のある人から知識の少ない人へという普通の教育の流れとは逆の、子どもから大人に向けた逆向きの情報伝播が起きます。そもそもパラリンピック教育なんて、これまで誰も受けてないわけですし。最初は私も、社会を変えるには大人を変えなきゃ! と思い、企業向けの講演会などを積極的に行なっていたのですが、子どもたちがもたらすインパクトに圧倒されて、むしろ子どもたちに注力すべきなんだなと気づきました。

子どもたちに教えると、子どもたちは感じたことを飾ることなく直接的に口にしてくれるので、それを大人が聞いてハッとさせられるんです。それは、ごく自然な流れで子どもから家庭、地域へと波及していきます。「子どもたちを通じた社会変革」ですね。

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「私がアスリートだったら、メダルを獲るより『WHO I AM』で取り上げられたい」

――「I'mPOSSIBLE」の中に、WOWOWとIPCによるドキュメンタリーシリーズ 『WHO I AM』を取り入れられていますが、マセソンさん自身、『WHO I AM』を見てどんなことを感じましたか?

東京パラリンピックに向けて、多くの番組やプログラムが作られていますが、「へー」と思うものはあっても、こちらが「やられた!」と思うようなものってなかなかないんです。でも『WHO I AM』を見せていただいた時は「うわっ! やられた!」と思いました。選手がキラキラ輝く瞬間だけでなく、彼らがなぜかがやいているのか、彼らを輝かせているは何なのか。全てがギュッと凝縮されていて、とにかく見応えがありました。私が現役のアスリートだったら、メダルを目指すよりも、この番組で取り上げてもらえるような選手になりたいなって思いました。本当にカッコよかったです!

――それを「I'mPOSSIBLE」の中に取り入れることになったのは?

子どもたちに伝える際に、映像の力ってすごく大きいんです。映像資料のインパクト次第で全然、食いつきが変わります。パラリンピック教育を浸透させるには、『WHO I AM』の映像の力を活用させていただかないと!とダメ元でWOWOWさんにご相談させていただきました。

先生も子どもたちも、障害のある人たちに対する先入観、思い込みをどこかしら、持っている部分があって、それを私たちは教材を使って崩していこうと活動しているんですが、映像を見ると一発で崩せちゃう部分ってあるんですよ。映像でガツンと崩してもらったところに、私たちの教材でさらに落とし込んでいくと、すごくすんなりと伝わるんです。(浸透度・理解度が)全然違います!

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――マセソンさんから見て、『WHO I AM』はどんなところが優れているんでしょうか?

変なフィルターがないことですかね。私たちが実際に接しているパラリンピアンのそのままが、等身大で伝わってくるんですよね。同じパラリンピアンを扱った他の番組は、見ていて「あ、ここは伝えちゃいけないと思って、気を遣ってこういう描き方してるのかな?」と見えてしまったりすることもあるのですが、この番組は妙な気遣いや遠慮を全く感じさせなくて、スーッと入っていけるんです。

一般の障がい者が「住みやすさ」「変化」を感じられてこそパラリンピックの成功

――いよいよパラリンピックがやってきますが、東京でこの大会が開かれることで期待することは?

やはり「正しいインクルージョンの概念を浸透させる」ということですかね? 日本でも「インクルージョン」や「ダイバーシティ」という言葉を聞くようになりましたが、私は日本語の「みんな」という言葉は「everyone」ではなく「majority(=マジョリティ・多数派)」だなぁと感じています。

これまで"みんな"だけで話を作っていたけれど「最近、"インクルージョン"と言われているから、障害のある人や、自分たちと違う人たちを"中"に入れてあげよう」「思いやりを持って接しましょう。困った人を助けてあげましょう」と。一緒の場に多様な人が存在することがインクルーションで、それを「共生社会」と勘違いしているケースが少なくない印象を受けています。

輪の"中"や"外"ではなく、なんで一緒に手をつながないの? というのが私が一番伝えたいことで、障害がある人たちとそうじゃない人たちをブレンドできる、お互いの強みを活かして協力できると思っている人がまだまだ少ないと感じます。それを気づかせる可能性を持っているのがパラリンピックかもしれません。

ただ、気をつけなければいけないのは、パラリンピックのアスリートは、障害がある人たちの中でも一部のエリートのトップアスリートなので、その人たちのことだけを知って、受け入れることだけがインクルージョンではありません。パラリンピックを通して、その他大勢の障害のある一般の人たちの生活がよくなるような考え方が生まれ、その受け皿ができるかというと、そう簡単ではないんです。報道の仕方も気をつけなければいけないですし、パラリンピックが万能薬ではないことも知ってもらう必要があると思います。

もちろん、パラリンピアンはアスリートとして扱ってほしいですから、そうなると記録や成績にどうしても目が行ってしまうのですが、同時にもっと地味なところ、競技場以外の生活場面にも目を向けてほしいです。選手たちが口にする競技場での「成功」という言葉だけではなく、ここで暮らす一般の障がい者たちが「パラリンピックをきっかけに日本って住みやすくなったよね」と言えるようにならなければ、この大会は成功ではなく、ただの打ち上げ花火のイベントになっちゃいますから。

大会が終わったら、残るものは必ずあります。でも、サーッと潮が引いていくと思うんです。もしかしたら企業のみなさんも「目立つところで引かなきゃいいよね?」と手を引くタイミングをうかがっているのではないか? と醒めた目で見ている部分もあります。このタイミングだからこそ「パラリンピックを通して社会を変えるとはどういうことか?」と聞いていただける部分もあるので、より伝えていかなくちゃいけないなと思っています。

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同調圧力を超えて「みんなと違っていい」といえる人が増えれば社会は変わる

――改めて、日本がバリアのない、よりインクルーシヴな社会に変わっていくために何が必要で、何を変えていかないといけないと思いますか?

同調圧力ですね。「みんなと同じがいい」という意識、みんなと違っていると「間違っているんじゃないか?」という錯覚に陥ってしまうような、定規がひとつしかない部分がありますよね。他人と「違う」ということに安心できる人たち、「違っていいんだ」と言える人たちが増えることが大事ですよね。

日本の社会に息苦しさを感じているのは、障害のある人たちに限った話ではなく、ちょっとだけニーズが違う人たち、ものの見方や感じ方、価値観が違う人たち。いろんな人がいることが普通のことですし、みんなが同じということがむしろ気持ち悪いと思える人がもっと増えたら、もっと居心地のいい空間が増えるのではないか、と思います。


――ハードの面でも、もちろんまだまだ改善すべき点はあるとはいえ、日本のインフラが欧米よりも格段に劣っているというわけでもないですよね?

優れている部分もあれば、劣っている部分もあると思います。私、初めての海外遠征がノルウェーで、マイナス20度の雪と氷の世界に行ったんです。北欧ってバリアフリーが進んでいると言われますが、そんな時期はもうバリアだらけですよ(笑)! 「どうなっちゃうんだろう?」と思っていましたが、全然苦にならなかったですし、イヤな思いもしませんでした。例えば「このお店、入りたいけどどうしよう?」と思っていると、何も言わずにすぐに周りから人が寄ってきて、サッと車いすを持ち上げて運んでくれて、スッと戻っていくんですよ。それで済んじゃうんですよね。

でもそれが日本に来ると、駅でどうしようかと考えて「優しくて力がありそうかな?」と思って声を掛けると「駅員さんを呼んできますね!」と言われたりします。「そんな大袈裟なことじゃなく、ちょっと手を借りたかっただけなのになぁ」みたいな感じなんですよね...。専門の特別な知識のある人しか助けちゃいけない、マニュアルを知らないと不安だからできませんと考えちゃう人が多いのかもしれないですね。

やっぱりそういうことに「慣れていない」ということが一番大きいのかな? と思います。やってみたら「あ、こんなに簡単なことなんだ」と思ってもらえる人も多いと思うので、そういう人を少しでも増やしてければなと思います。

――その中で、WOWOWに期待することを教えてください。

実社会の中で、"多様性"というものが目につきにくい日本の社会ですが、だからこそ、それを映像の世界で描いてほしいと思っています。知識を得るだけより、登場人物の性格や人間関係を想像したり、感情移入しながら理解が深められると思うんです。

障害のある人たちを特化する必要はなくて、ごく普通にいる人たちとして伝えてほしいんです。それこそ「パラリンピックに関することだから、マセソンさん、出てください」じゃなく、子育て談義や旅の話、家庭菜園のことでもいいですし、「障害のある人はパラリンピックや福祉分野」ではなく、そうでない分野でもっとフィーチャーしてもらえるようになったらいいなと思います。

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撮影/祭貴義道

★パラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」シーズン1~4(全32作)WOWOWメンバーズオンデマンド、WHO I AM番組サイトで好評無料配信中
★6月上旬より、これまで「WHO I AM」に登場した世界中のアスリートからのスペシャルコメント動画「~それぞれの2020年~ アスリートからのメッセージ」も随時無料公開中
・WHO I AM 番組公式サイト http://wowow.bs/whoiam
・WHO I AM プロジェクト公式サイト https://corporate.wowow.co.jp/whoiam/
・公式twitter & Instagram @WOWOWParalympic #WhoIAm

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