「経験を重ねることで、自分を信じられるようになる」3Dオーディオのプロフェッショナルが考える、エンジニアの在り方
技術局 エグゼクティブ・クリエイター 入交英雄
「フォープレイ」での活動でも知られるジャズ~フュージョン界を象徴するピアニスト、ボブ・ジェームスのニューアルバム『フィール・ライク・メイキング・ライブ!』が2月25日に発売される。
本作で3Dオーディオ版とHPL(ヘッドホンを通すことで3Dオーディオの臨場感が得られるバイノーラル技術)版のミキシングを担当したのが、WOWOW技術局に所属するエグゼクティブ・クリエイター入交英雄だ。3Dオーディオ界におけるパイオニアでもある彼が今回挑戦した“音による空間の表現”とは──?
ライブハウスの特等席で演奏を聴いているような音体験をリスナーに提供する
──ボブ・ジェームスのニューアルバム『フィール・ライク・メイキング・ライブ!』の制作に入交さんが関わることになった経緯を教えてください。
今回のアルバムはもともとステレオ版としてリリースするために作られたものですから、アメリカのスタジオで録音され、現地のスタッフがステレオ版のミックスも手がけています。その後、オムニクロス(辰巳にあるWOWOWのスタジオ)の3Dオーディオに興味をもったエヴォリューション・ミュージック(ボブ・ジェームスが所属するレーベル)から、「この曲を試しにミックスしてもらえませんか?」とマスターファイルが届きました。
その時点ではボブさんの曲ということは伏せられていましたが、音を聴いただけですぐに「ボブ・ジェームスの演奏だ!」とわかってしまって(笑)。
入交英雄
「このテストミックスで評価を得て、ボブさんの曲をミックスしたい」と思い、何パターンかミックスしたものを送りました。
それらは彼らが想像していたものよりも良かったようで、ボブ・ジェームスの最新作を3Dオーディオ版でも作ることが決まりました。2019年7月のことですね。その後、届いたマスターデータを3Dオーディオ用にミックスして、それを2020年1月末~2月にベルギーのギャラクシー・スタジオで再度ミックスし、最後にマスタリング(収録される各曲を細かく調整し、アルバム全体を通して違和感なく聴けるようにする作業)したという経緯です。
ですから、私が担当した作業としては、オムニクロス・スタジオでのミキシングと、ギャラクシー・スタジオでの最終ミキシングおよびマスタリングですね。
──3Dオーディオ用のミキシングを行なったWOWOWの「オムニクロス」とは、どんなスタジオなのでしょうか?
「オムニクロス」場内
オムニクロスを作ったのは2018年なんですが、当時はまだ"3Dオーディオのスタジオ基準"が考えられていなかったんです。3Dオーディオの規格には「Dolby Atmos」「22.2ch サラウンド」「360 Reality Audio」「Auro-3D」といったものがありますが、それぞれが推奨するスピーカー配列が微妙に異なるため、各社のレギュレーションを調べて、どの方式でも最適な位置で聴けるようなスピーカー配列にしたのがオムニクロスの特徴です。
2020年1月初旬、公演のために来日中、マスタリング前の3Dオーディオ版『フィール・ライク・メイキング・ライブ!』を体験するためにWOWOWオムニクロスを訪れたボブ・ジェームス
「Auro-3Dのスピーカー配列だと最適に聴こえるけれど、Dolby Atmosの配列で聴いたら全然ダメだった」なんてことがないように、コンパチビリティを考えながら作ることが最も重要だと思い、設計したのがオムニクロスです。その結果、全部で33本のスピーカー(水平位置に11本、天井に17本、床レベルに3本、サブウーファー2本)が設置されているのが現状です。
場内のスピーカー
オムニクロスで3Dオーディオを視聴するボブ・ジェームスら
──アメリカから届いた音源を、オムニクロスで3Dオーディオ用にミックスしたとのことですが、ミックスとはどういった作業のことをいうのでしょうか?
それぞれの楽器に置いたマイク音源がバラバラに入っていて、全部で30チャンネルぐらいある"マルチチャンネルデータ"というものが送られてくるので、それらをひとつひとつ音響空間に配置して整える作業をミックスといいます。
例えばステレオ版の場合は、ピアノの音を右と左に、ドラムの音も右と左に振り分け、ベースの音を真ん中に配置していきますが、これは録音した際の空間の配置......向かって左にピアノ、真ん中にベース、右にドラムという空間構成とはまったく異なるんですね。
──なぜそういった配置にするのでしょうか?
ヘッドホンで聴く際は、そうしたほうが聴きやすいからです。録音時の空間構成に合わせると、ピアノは左からしか聴こえず、ドラムは右からしか聴こえなくなる。それだとヘッドホンで聴いたときに違和感があるんです。ですからピアノとドラムの音をそれぞれ右と左に振り分けるんですが、3Dオーディオだったら録音時の空間構成をそのまま再現することができるんです。
今回は「ライブハウスの特等席で、かぶりつきで演奏を聴いているような音体験をリスナーに提供する」ことをテストミックスからコンセプトにしていたので、ピアノを左、ベースを真ん中、ドラムを右に配置したんです。
──テストミックスの際はボブ・ジェームスの演奏であることも知らされず、音だけを与えられたと思うのですが、それでも録音時の空間構成をイメージできたということですか?
そうですね。レーベルの人にも「なにかのビデオを見て、こういった音の配置にしたのか?」と聞かれましたが、音を聴くと「この音は左に行きたがっている」みたいなことがわかるんです。経験からくるもの......ですかね? それはわかりませんが、右と左が逆になっていたりすると「なんか違うな? 気持ち悪いな」と、私たちのようなエンジニアは自然と感じることができるんだと思います。それがわかるということは、録音時のマイクの置き方が良かったんでしょうね。マイクを適切に配置するということはすごく大事なことなんです。
エンジニアに一番必要な要素は「聴く能力」と「自分を信じる力」
──今作では、3Dオーディオ用のスピーカーがなくてもヘッドホンで疑似体験ができるようにと、HPL(ヘッドホンを通すことで3Dオーディオの臨場感が得られるバイノーラル技術)を取り入れているとのことですが?
HPLに関しても、私がミックスしています。3Dオーディオほどではないけれど、3Dオーディオに肉薄するような臨場感をリスナーが得られるように。なんとなく左のほうからピアノの音が聴こえてきて、右のほうからはドラムが聴こえてくるような、音に包み込まれる感じを大切にしています。
というのも、「音楽を聴いて感動してもらうには、何が必要なんだろう?」と追求していくなかで......音響学などから紐解いていった結果、音の広がりと、その音に包み込まれる感覚というのが非常に大事な要素だということがわかったんです。電子音楽などでは、いろんな方向から音が聴こえてきたり、音が動いたりするものもあって、それはそれですごく面白いとは思いますが、感動には直接結びつかないんですよね。
リスナーに感動してもらうためには、ぐるっと周囲を音に包み込まれる感覚が必要で、そういった音楽に人はどんどん引き込まれ、没入していくんです。クラシックやジャズといったアコースティックの音楽は特に、コンサートホールで聴くと包み込まれる感覚になるので、3Dオーディオがとても向いていると思います。
──日本でミックスを終えたのち、ギャラクシー・スタジオで最終ミキシングをしたとのことですが、具体的にはどんな作業を行なったのでしょうか?
3Dオーディオは先ほど言ったように"空間"が大事なんです。ただ、今作はもともとステレオ版として作っていたので、空間を再現するための要素が足りなかったんですね。ギャラクシー・スタジオにはクラシック音楽などを収録している大きなホールがあるんですが、音の響きも非常にいいんです。ですから今回は、そのホールにスピーカーを設置して、オムニクロスでミックスした音を再生し、ホールの響きを11本のマイクで録るということをしたんです。その響きを、最終ミキシングでは加えています。
──3Dオーディオのミックス音源に、さらに残響を加えたということですか?
そうですね。それがギャラクシー・スタジオで行なったメインの仕事でした。現地のスタッフさんたちとディスカッションを重ねながら、Auro-3Dに精通している方たちばかりなので、みなさんに聴いていただいて、意見を交換できたのは貴重な経験となりました。
ギャラクシー・スタジオ
──どんなディスカッションだったのでしょうか?
オムニクロスでミキシングした際の音源定位は、ドラムが真右にあって、ピアノももっと左に配置させたんです。それはそれで面白いんですが、ギャラクシー・スタジオの方たちに意見を伺うと「少しやりすぎじゃない? リスナーは気が散ると思うよ」とか「前のスピーカーのほうが後ろよりも高級なスピーカーを置く人が多いから、楽器の音は前のほうに置いたらどう?」とか、いろんな意見をいただいて、少しずつ修正していきました。
そうやってみなさんとディスカッションしたことで、「やっぱり自分のやり方で良かったんだ」と再確認できたのは大きかったです。日本では自分の他にやっている人がいないので、「これで良いんだろうか?」といった疑問を抱えながら試行錯誤していましたが、ギャラクシー・スタジオの方たちと意見がほとんど一緒だったので「良かった、間違ってなかったんだな」と確認することができました。
──ひとりで作業されているなかで、「これで正しいはずだ」と何を頼りに決めていくのでしょうか?
エンジニアに一番必要な要素は「聴く能力」と「間違ってもいいから、自分を信じる力」だと思うんです。聴く能力は、どちらかというと鍛えるものであって、前提として「客観的に分析できる能力」が必要になります。でも実は、そこができていないミキシングエンジニアが多くて......聴能形成という耳を鍛えるプログラムなどもありますが、大事なのは"自分の感情に左右されずに聴く"ことなんですね。
──「感情に左右されずに聴く」とは?
例えば、心拍数が上がってくると音が大きく聴こえたりするんですが、そういった自分の心理状態と関係なく音が判断できる能力が重要になります。それができてくると、次は「ここにこういうピアノがあって~」といったようなイメージを描くことが大事になってきます。イメージを描くことができれば、自分のイメージ通りに音を作ることができますから。じゃあ、どうやってイメージを湧かせるかというと、やっぱり経験ですよね。いろんなライブハウスに行って、いろんな音楽を聴いて「こんな風に聴こえていたな」と思い出しながらイメージを作っていったりするんです。
──技術だけじゃなく、イメージのような感覚的なところも磨いていく必要がある?
そうですね。技術はマニュアル化できますが、技能はマニュアル化できませんから、口伝や実際に見て、自分で納得するしかないんです。例えば私がいくら教えたとしても、その人が「なるほど!」と腑に落ちない限りは伝わらないと思うんです。技能とは自分で自分のなかに作っていくものであって、そういった経験を積み重ねていくことで自分が信じられるようになっていく。エンジニアとはそう在るべきだと思うんです。
聴いた人が感動を得られるような空間を作るエンジニアを増やしたい
──ボブさんがインタビューで「リスナーは僕のピアノ席にいるような感覚になれるんじゃないかな」とおっしゃっていましたが、まさに入交さんがテストミックスのときからコンセプトとしていた「ライブハウスの特等席で、かぶりつきで演奏を聴いているような音体験をリスナーに提供する」ことと重なりますね。 ※ボブ・ジェームス インタビューはこちら
ボブさんにそうやって感じていただけて嬉しかったです。3DオーディオはVRの要素もあって......今作でいうと、左に行くとピアノの音が、右に行くとドラムの音が大きくなりますし、後ろへ行くとステージ上の演奏を後方から聴いているような感じに聴こえるんです。座る場所によって、聴こえ方が異なるのも3Dオーディオの面白いところだと思いますね。音の動きだけを考えて作ったミックスでは、そういった聴こえ方にはなりませんから。
──そもそも、入交さんはどのようにしてボブ・ジェームスの音楽に出会ったのでしょうか?
私は学生時代にブラスバンドやクラシック音楽をやっていたんですが、ちょうどその頃ボブさんも世に出てきて......クラシックで有名な「禿山の一夜」(ムソルグスキー)や「ファランドール」(ビゼー)といった曲をジャズにアレンジしているのを聴いて、「メロディーは同じだけど原曲とはまったく違う、これは一体なんだ?」と興味を持ったのがきっかけです。
──ボブ・ジェームスの魅力とは?
もともとはクラシックのピアニストを目指していた方なので、音楽のバックボーンがものすごく豊かなんですよね。それらのバックボーンに裏付けされた音の美しさが、メロディーにも表れている。それに、ボブさんの人柄から出てくる"優しさ"といいましょうか...メロディーひとつ取っても、聴く人の心を穏やかにするような要素があると思うんです。
私たちはボブさんのような音楽を「フュージョン」と言っていましたが、クラシックやジャズ、ロックの要素を混ぜて、ボブさん流にアレンジしたものですよね。強いて言えばライトジャズみたいな感じでしょうか。だから、若い方たちが聴いても違和感なく、「いい音楽だな」と思えるんじゃないかと思います。ぜひ多くの方たちに聴いていただきたいですね。
──今回のプロジェクトにおいて、入交さんにとっての"挑戦"とは何でしたか?
音で空間を表現するにはどうしたらいいのか、いろいろと試行錯誤したことですね。先ほど言ったように、ベルギーでもスタッフの方たちにお願いして、スタジオのなかにマイクを並べたり。それで音が良くなるかどうかなんてわからないので、普通は嫌がると思うんですが、「面白いからやってみよう!」とみなさんノリが良く、一緒に取り組んでくださったのが本当にありがたかったです。そうやって試行錯誤しながら空間を表現していったのが、一番の挑戦だったと思います。
しかも今回はステレオ用に録ったマルチチャンネルファイルから作りあげたので、そもそも空間の情報が音にほとんど入っていなかったわけですから。ベルギーのみなさんとも「次回は3Dオーディオ用にきちんとマイクを立てて録音して、最初から空間のある音を作りましょう」と話していました。
──今回の挑戦がWOWOWにもたらしたものは何だと思いますか?
WOWOWとしては「最上のものを目指す」ことと「そこから利益を生み、事業を回していく」こと、その両方をやっていかないといけないんです。それをどうバランス良く行なっていくかは大きな課題だと思いますが、私に与えられた使命としては、前者の「最上のものを目指す」ことですよね。「このへんでやめておこう」ではなく、できるところまでどんどん突き詰めていくことが今後も大事だと思っています。
そして、できるだけ多くの人に興味を持っていただくため、3Dオーディオが体験できる機会をどう作るかということも考えています。オムニクロスでボブさんに聴いていただいたように、まずは実際に3Dオーディオで聴いていただくことが大事なんですね。
──とはいえ、自宅に3Dオーディオの設備がない人がほとんどですよね......。
実はいま、3Dオーディオのプレイヤーアプリを開発していて、まさに技術検証を行なっている最中なんです。
※プレスリリース:世界初!NTTスマートコネクトとの協業によるハイレゾ・3Dオーディオ再生用ωプレーヤーの開発およびωプレーヤーとSmartSTREAMを活用した配信実証実験の実施について
──3Dオーディオの設備を持たない人でも、そのアプリで疑似体験ができるということですか?
そうですね。家にあるスピーカーを使って3Dオーディオの疑似体験ができるように......もちろん、「あと2つスピーカーを足してみませんか?」といったご提案も試聴会などを通じて行なっていきたいと思っています。Auro-3D用にミックスした曲を専用チャンネルで配信して、それをアプリで聴いていただく形になるかと思います。
──エンジニアとして3Dオーディオの技術をどんどん突き詰めていくこと、一般の方たちが身近に触れられる機会を増やし、3Dオーディオを広めていくこと。その二つにいまは尽力されていることがわかりました。エンジニアを育てるという観点ではいかがでしょうか?
それが一番難しい問題だと思っています。先ほど「いくら自分が教えたとしても、相手が腑に落ちないと身につかない」といったお話をしましたが、そのためにも「とにかくやってみる」ことが必要なんです。でも、その「やってみる」機会がなかなかないのが現状で......そういう意味でも、コミュニティを作るのが良いんじゃないかと思っています。WOWOWの人間だけじゃなく、3Dオーディオに興味がある人たちがたくさん集まれば、お互いに感化されるでしょうから。
以前に比べて3Dオーディオのエンジニアも増えていますが、僕自身の経験を振り返ると......独学で試行錯誤を繰り返して、「音で空間を作っていく」ところに到達するまでには4、5年かかっているんです。いま取り組み始めた人たちも、独学でやったら同じぐらいの年月がかかると思うんですね。だからこそ、コミュニティで事例報告や意見交換をして、業界全体で高め合っていければと思っています。「WOWOW Lab(※)」で始めるのも良いですよね。
※ WOWOW Lab(ワウワウラボ):社外の様々な企業、アーティスト、エンジニア、クリエイターとWOWOWのプロデューサーがコラボレーションしながら未来のWOWOW、そして新しいエンターテインメントをつくる活動(https://corporate.wowow.co.jp/wowowlab/)
にわかに注目を浴びてきている3Dオーディオですが、聴いた人が感動を得られるような空間を作ることができるエンジニアってまだ少ないんです。方式ばかりが先行すると、「面白いけど、まあこんなもんなんだね」で終わってしまい、やがて廃れてしまうでしょうから......感動を伝えられる道具としての3Dオーディオを作れるエンジニアが増えていけばいいなと思っています。
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構成/とみたまい 撮影/祭貴義道