2020.12.11

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アメリカ行きは挑戦ではなく"逃げ"の気持ちから実現した? 日本のエース・木村敬一が手にした自己肯定感の大切さ

東京2020パラリンピック競泳日本代表/ロンドン2012&リオ2016パラリンピック大会メダリスト 木村敬一

アメリカ行きは挑戦ではなく

2018年に放送されたWOWOWのパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」シーズン3にて、アメリカに渡り、現地で語学学校に通いながらトレーニングに励む姿を見せていたパラスイマーの木村敬一。パラリンピックで銀メダルと銅メダル通算6つを獲得し、日本競泳界のエースとして臨む東京パラリンピック、悲願の金メダルに向けさらなる進化・成長を見せていたが、今年に入って新型コロナウイルスの世界的な感染拡大により帰国を余儀なくされ、東京2020オリンピック・パラリンピックの1年延期も決定した。

いま、日本で木村はどのような想いでトレーニングを行ない、2021年に向けて歩みを進めているのか――? 今年に入ってWOWOWと木村が所属する東京ガスが共同で東京・豊洲エリアに設立した、多様な個性やアスリートたちが集まる情報発信拠点となる「WHO I AM HOUSE Powered by TOKYO GAS」が完成。この「WHO I AM HOUSE」にて、木村に話を聞いた。

失明しながらも活発な少年時代 自由に遊べるフィールドとして母が見つけたのがプールだった

――子どものころはどんな子でしたか? 小学生から水泳を始められたそうですが、水泳との出会いについて教えてください。

生まれつきの障害で2歳で失明したんですが、そんな中でもわりと活発なほうで、落ち着きのない子どもだったらしいです。もちろん、目が見えてないのでいろんなところにぶつかったりケガが多くて、母親がなんとか安全に体を動かせる方法はないか? と考えて、プールの中というのを思い付いたみたいです。それでスイミングスクールに通い始めたのが始まりでした。201211_features__kk2_MG_0335.jpg

――ご自身は目が見えないという障害についてはどのように受け止めていたんでしょうか?

幸い、家族や周りがいろんなことを考えながら僕を育ててくれたと思うので、見えないということでそこまで苦労するという局面に出会わずに済んだんですよね。あんまりそこまで(見えないということについて)考えていなかったと思います。

――水泳との出会いは、木村さんにとってどういうものでしたか?

一つ自分が一生懸命になれる、打ち込めるものと出会えた気はしていましたね。

――そこから本格的に競技者として水泳をやっていこうと思ったきっかけなどはあったんでしょうか?

中学生の後半から高校生になったくらいのころだと思います。中学で東京の学校に進学して、そこは周りにもパラリンピックを目指すような選手、実際に出場した先輩もいて、なんとなくですがパラリンピックというものが身近にあったんですね。速く泳ぐようになることを必然的に目指すようになっていった感じでしたね。

――当時は泳げば泳ぐほど、ご自身でも速くなっていくことを実感されていたんですか?

成長期と重なっていたこともあって、ぼんやりしてても記録は伸びていったので(笑)、そんなもんかな? とか思ってましたね。

――中学生のころに国際大会で頭角を現わし、高校時代には北京パラリンピックにも出場されて、入賞(100m自由形S11:5位/100mバタフライS11:6位/100m平泳ぎSB11:5位)を果たしています。10代にしてパラリンピックに出場するという経験はいかがでしたか?

正直、10代の時はあんまりその重要度合を分かってなかったと思うんですが......(苦笑)、とはいえ、一歩でも早くそういう舞台に立てたことで、その後、すべてが前倒しで進んでいったと思うので、そういう意味で何事も早くに経験できたことはよかったなと思います。

自由に生き続けた人生の中でも「異次元の決断」となったアメリカ行きの理由

――以前、WOWOWで放送された「WHO I AM」を見ると、ご両親が木村さんを特別扱いせずに、なんでも経験させるという方針で育ててきた様子がうかがえました。木村さんにとってご両親はどういう存在でしたか?

本当に自由にさせてくれているなという感じですね。それでも、何か困ったことがあれば、最後の砦(とりで)というか、最終的に頼れる存在であり、それ以外のところは、「やりたいようにやればいいよ」と言って応援してくれる――人生の"砦"かなぁ? やっぱり。

僕、小学校1年生から寮生活だったんですよね。だから、過ごした時間も短くて、両親がどういう人か知っているようで知らないことが多いのですが(笑)、でもやっぱり、最後には頼れる存在ですしね。

――小学生にして子どもに寮生活を送らせるというのは、ご両親にとってもすごく大きな決断だったのかなと思いますが、木村さん自身は不安や「ちょっと待ってよ!」という気持ちはなかったんですか?

いや、僕自身は本当にその重大さを分かってなかったんですよね(笑)。自分がこの年になって――とはいえ、まだ両親が僕を育てていた年齢には達してないんですけど――本当に親が思い切ったなって思いますね。周りのいろんな話を聞いて、あぁ、うちの両親はいろいろと思い切ったことをやってたんだなぁと。僕自身は、よく分かってないので、ぼんやりしてました(笑)。

――「WHO I AM」では、アメリカに渡って現地の語学学校に通ってトレーニングする日々が描かれていますが、渡米前にご両親が「わざわざアメリカに行かなくても」と心配し反対されたということも描かれています。ただ、お話を伺っていると、このご両親だからこそ、木村さんはひょいとアメリカに行くという決断をされたんじゃないかなと感じました。

でも「アメリカに行く」と決めたのは、僕の人生の中で初めて"無理"をしたという気がしています。小学生で家を出るとか、中学で東京に行くとか、そういうのって視覚障害がある状態で生まれて、自立して生きていく上で必要なプロセスだったのかなと思うんです。

でもアメリカに行くというのは、言ってしまえば"なくてもいい"ことなんですよね。ただ単に、より良いものを求めただけで、かといってアメリカに行かなかったからといって人生が終わるわけでもパラリンピックを目指せなくなるわけでもないし、やはりアメリカに行くというのは、ちょっといままでの選択とは異次元だったのかもしれないですね。

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――あらためて「アメリカに行く」という決断に至った経緯、理由について教えてください。

なんかもうイヤだったんですよね......。同じ生活をしていることが。でも「もう一度パラリンピックを目指したい」とか「東京で金メダルをとりたい」という軸はあって、でもそのために今までと同じ環境で日本での生活を続けていくというのがイヤだったし、無理だなと思ったんです。

だから、アメリカに行ったことを"挑戦"という捉え方をしていただけることも多いんですが、僕の中ではどちらかというと逃げの一手に近くて、日本でトレーニングして東京の金メダルを目指すということから逃げ出した結果でもあったんだと思っています。

――「逃げた」にしては、その代わりに襲い掛かってくる試練がすさまじかったと思います。「WHO I AM」でも英語や生活習慣の違いに当初、苦労されている様子なども描かれていました。

そういう苦労を差し引いてでもイヤだったんでしょうねぇ......(笑)。

すべてを自分の決断に委ねられるアメリカでの生活で得た「自己肯定感」の重要性

――アメリカに渡って、現地での生活の中で日本との違いについて、どのようなことを感じられましたか?

「そんなに何でも自分で決めていいんだ!?」って驚きましたね。トレーニングをするってことに関しても「そんなに自分のためにするんだ?」って思いました。たとえばホリデーで何日かまとまった休みがあったりして、練習が休みになったりすることがあるんですけど、そうすると僕の感覚では「今日は(決められた)練習がないし遊びに行こうか? イベントに行こうか?」みたいな感じなんですけど、あっちのみんなは考え方が逆で「今日はイベントがあるから、練習はしません」みたいな順番なんですよね。練習をするかしないかも全部自分に任されていて、そんなにもすべて自分で決めるものなのか......って思いましたね。

――「WHO I AM」にも出演されているコーチのブライアン・レフラー氏や練習パートナーのマケンジー・コーン選手(※https://www.wowow.co.jp/sports/whoiam/lineup/mckenzie/)との出会い、現地での練習で発見したことなどはありましたか?

選手とコーチの関係とかも「それ、友達だな......」と思うくらい近いんですよね。マケンジーは20代の女の子なんですけど、「こないだマッチングアプリで出会った男に、私が金メダリストってことがバレちゃってブロックしてるんだよね」みたいな話をしたりしてて「そういう話をするんだ? 変なの......」って(笑)。

選手のプライベートにまで踏み込んでくるコーチって嫌悪されるものかと思ってたんですけど、その踏み込み方が全然イヤな感じがしないんですよね。

――アメリカで経験したこれまでにない価値観や発見は、その後、日本に帰国後も、練習や日常生活の中で活かされていると感じますか?

いや、むしろ裏目に出ていることが多い気がしますね、遅刻しちゃって怒られたり、軽く「やりまーす」とか言っててやらずに怒られたり......(苦笑)。

――今年、新型コロナの感染拡大もあって、日本に戻られたそうですが、帰国後のトレーニングの状況などについて教えてください。

ナショナルトレーニングセンターというアスリートが使用できる施設が都内にあるので、そこを現在は拠点にしています。トレーニングの内容に関しては、基本的にアメリカのコーチから毎日もらっていて、その内容や結果を日本にいるスタッフに見てもらうというスタイルで進めています。

――新型コロナの感染拡大によって東京2020オリンピック・パラリンピックの延期もありましたし、ご自身の生活およびトレーニング環境の大きな変化もあったかと思います。この1年弱の状況を木村さんはどのように受け止めていますか?

別に延期になったことに関しては、僕らがやること自体は変わらないんですよね。大会が1年後であれ半年前であれ。だからそこに関しては特に何もないですが、あんまり面白くないなぁ......と感じています。

先ほどトレーニングの話をしましたが、そこに関しては非常にポジティブで、アメリカにいた当時のコーチからの練習メニューに加えて、時々、日本代表のトレーニングにも混ぜてもらう形でやっていて、そこでいろんな刺激をもらっています。

そこは自分なりに意識して、飽きないように工夫しながらやっていますし、日本にいるからこそ、いろんな選択肢を増やせるので、そこはポジティブに捉えてやっています。

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――あらためて、アメリカでの厳しいトレーニングを経て手に入れたものは何だと思いますか?

自己肯定感が育ったなと思いますね。僕、あんまり自分に自信がなかったんです。でもアメリカに行って、自分でも「がんばって生活してるな」と思えることが多かったし、たまに日本に帰ってきて現地での生活のことを話すと「すごい生活してるね」と言ってもらえたりして、あぁ、自分が思っているよりも頑張っているのかもしれないなと思うと「偉いもんだな」って(笑)。そのへんから自分が歩んできた人生に自信を持っていいのかなと思えるようになりましたね。

――渡米の決断も含めて、物事をポジティブに捉えて決断し、前に進んでいく"強い"人というイメージを抱いていたので、そもそも「自分に自信がなかった」ということに驚きを感じています。

そこがちょっとした食い違いですよね(笑)。さっきも言いましたけど、(渡米は)挑戦したわけじゃなくて逃げ出してるわけですからね。

「選手でいることが自分にとってはいちばんしっくりくる」――リオ2016大会のメダル獲得後にもう一度、4年後を目指せたワケ

――ここから2021年のパラリンピックに向けたお話も伺ってまいります。「WHO I AM」の中で木村さんは「自分がどこまで強く速くなれるのか関心がある」ということをおっしゃっていましたが、なぜそこまで自分を追い込み、チャレンジできるんでしょうか? これまで3大会のパラリンピックに出場してメダルも獲得しながら、さらに4年後を目指せたのはなぜなんでしょうか?

結局、「選手」をやっているのが自分にとってはいちばん落ち着く状態なんですよね。だから、その選手をやるという枠の中で言うと、目指す目標ってすごく分かりやすくて、より速くなるということが追求すべき方向であり、それが自分にとっていちばんしっくりくる土俵なんだなと思います。

その(より速くなれるという)可能性が自分の中にまだ残されていると感じるから、自然と目指せているのかなと思いますね。

もし、ほかに自分がすごくやりたいと思えることや、戦うべき違う土俵が見つかったら、そのときは目標が変わって「(やるべきことは)トレーニングなんていうしんどいことじゃないな」と思える日が来るのかもしれないですけど、いまのところまだその日が来ていないんですね。

――トレーニングのしんどさに耐えられなくなることはないんですか?

慣れちゃってるんでしょうね(笑)。そういうもんだと思ってやってきているので。逆に毎日スーツを着て、満員電車に乗るってことは、僕は耐えられないと思いますし。3日で辞めるでしょうね。

――400メートル自由形のほうが絶対にキツいと思いますが......(苦笑)。

慣れの問題です(笑)。

――心が折れそうになったり、へこたれることはないんですか?

折れてもほかに行き場所がないんですよね(苦笑)。後に引けないし、人生のつぶしが利かなくなってますから。

自分にとって「水泳をしている」ことは「パラリンピックで戦うこと」

――先ほど、10代のころはパラリンピックの重要性を分かっていなかったとおっしゃっていましたが、北京、ロンドン、リオと3大会連続で出場されてメダルも獲得して、あらためて木村さんにとってパラリンピックというのはどういう存在になっていますか?

いまとなっては「水泳をしている」ということが「パラリンピックで戦う」ということと同義になっているというか、自分が水泳することの意味そのものになっていると思います。だからパラリンピックなしには自分の中で水泳が成立しなくなってますね。

201211_features__kk5__MG_0407.jpg――社会におけるパラリンピックの存在も、2008年の北京のころと比べて大きく変容して、パラアスリートに対する注目度などもこの十数年で大きく変わってきたと思います。こうした変化はどのように捉えていますか?

シンプルにうれしいですね。やはり頑張っていることが一定の評価を受けることはアスリートにとってモチベーションになりますし、ただただうれしいです。

社会の変化という点に関しては、少なくともパラリンピックが日本で注目されることで、障害のある者の存在がクローズアップされるようになったと思います。まず存在を知ることが理解の何よりの第一歩だと思います。

アメリカではパラリンピックというものに関係なく、多くの障がい者が普通に街に出てくるので、みんな見慣れていると思うんです。だから「理解が進んでいる」という言い方をされると思うんですが、日本ではまだまだ障がい者が自分から気軽に外に出ていかないという部分もあると思います。パラリンピックという注目を集める大会を媒介にして、障がい者の存在がクローズアップされることで、多くの人に知れ渡って、そこから世の中の理解が進んでいくことになると思います。

まだいまはパラリンピックという"媒介"を通じて、われわれの存在を社会に知らしめている最中でもあると思うけど、それは絶対に必要な段階だと思うので、そこから何かが変わって動き出していくきっかけになるんじゃないかと思います。それが東京にパラリンピックがやってくる一つの意義なんじゃないかなと。

――あらためて2021年8月に開幕する東京2020パラリンピック大会に向けての現在の心境、想いを教えてください。

それはいまもこの先も変わらず、まずは金メダルが欲しいです。あとは、どういう形になるか分からないですが、日本、そして東京という街は世界から一定の評価をされている街だと思っていますし、僕がアメリカで一緒にやっていた選手たちも東京に行くことを楽しみにしていたので、彼らに楽しんでもらいたいなという想いをすごく持っています。

選手であると同時にひとりの日本人――開催国の国民として、彼らをしっかりとサポートする役目を負っているのかなと思っています。

「WHO I AM」が放送されて「急にモテるようになりました(笑)」

――ここからWOWOWの「WHO I AM」に出演されての感想などもお聞きできればと思います。アメリカでの生活や大会を含め、隣でカメラが木村さんを追いかけている状況でしたが、そうした撮影のプロセスや完成した作品も踏まえて、どのような感想をお持ちですか?

撮影中は「こういうことをしてほしい」とか「こういうシーンを撮りたい」といったリクエストが全然なかったんですよ。「ただ生活していてほしい」という感じで、そんなんでいいのかな?ってずっと思ってたんですね。

50分の番組って結構長いけど、1週間くらいで(アメリカから)帰るって言ってるし、どんな風に仕上がるんだろう?って心配してたんです。でもそれが狙いだったみたいで、僕らの生活そのもの――作られたストーリーじゃない、生活の実態にいかにしれっと踏み込むかというところをがんばったんだろうなと思いました。

「WHO I AM」を見た人が「これを見たらアメリカでどんな風に暮らしているのかが本当によく分かった」と言ってくださって、選手ひとりひとりと同じ目線で、内側に入り込んで作り上げていくというスタイルなんだなぁって。

――ちなみにご自身以外のアスリートのエピソードはご覧になったんですか?

練習パートナーのマケンジーとか、ゴールボールのリトアニアのユスタス・パジャラウスカス、スロバキアのスキーヤーのヘンリエッタ・ファルカショバと(ガイドの)ナタリア・シュブルトバのエピソードなどは見ましたね。

――アスリートの側から見て「WHO I AM」という番組はどういうものなのか教えてください。

パラリンピックスポーツの番組なんですけど、競技のすばらしさや面白さを伝えると同時に、そのパラアスリートのパーソナリティーそのものを前面に打ち出してくるから、よりコアなファンを獲得しにかかっているなと(笑)。

――おっしゃる通り、番組を見たら間違いなくそのアスリートのファンになると思います。

そうでしょうね。実際、急にモテるようになりましたし(笑)。放送された瞬間に。

――昨年はWOWOWの主催で、「WHO I AM」発のユニバーサルスポーツイベントとして「ノーバリアゲームズ」が初開催され、木村さんも参加されて、周りが心配するほどの大暴れをされていました。

「ノーバリアゲームズ」をはじめ、WOWOWは半端じゃない感じで社会を変えにかかっているなという熱量を感じますね。社会を変える方法はいろんなやり方があるとは思うんですが、一過性で終わらせないように、抜本的に根源から変えていこうとしているんだろうなと思いましたね。

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「自分なんて......」と思わずに、いまできることをやればいい!

――このインタビューでは必ずみなさんに、人生や仕事で"軸"となっていること、大切にしていることをお聞きしています。木村さんが最も大切にしているのはどんなことですか?

大切にしていることは"平和"ですね。僕、ホントに極力、人とケンカしたり、もめたりしたくないんです(笑)。だからなるべく平和に......。

――アメリカに行くと「もっと自己主張をしろ!」と言われたのでは?

言われました(苦笑)。だから、なるべくもめごとが起きないようにと自己主張をするようにしてました(笑)。でも、いまだに(他人と意見が)ぶつかったら「確かにそうですね」とか言いながら簡単に意見を翻したりしちゃうところはありますね......。

「正面からぶつからない」というか、置かれた状況を変えていくというよりは、「そこで自分に何ができるか?」というのを考えるようにはしています。それはわりと昔からそういう性格だったと思います。

――そのお話を聞くとあらためて「アメリカに行く」ということが、これまでの人生の中でも異次元の決断だったんだなと感じます。

そうですね。日本でトレーニングを続けること自体は可能だったんですけど、それはイヤだったので、「トレーニングはしたい」でも「日本で生活するのはイヤだ」というのをなんとかする方法だったんですね。

――木村さんの姿を見て、障害のある人もそうではない人も多くの人たちが勇気づけられていると思いますが、なかなか勇気を持って一歩が踏み出せないという人に向けて、メッセージを頂けますか?

うーん、そういうの(=勇気)って、ある日突然ふと湧いてくる時が来ると思うんです。逆にそれでも湧いてこないということは、そこまでしたくないんじゃないかなとも思います。「自分なんて......」ということは思わずに、いまやれることをやっていけば、いつか本当に耐えられなくなったら自分から動ける日が来ると思うので、その時までのんびりしていていいと思いますよ(笑)。

――先ほど、東京パラリンピックに向けての想いはお聞きしましたが、さらにその先の人生について、目標や挑戦したいことなどはありますか?

幸せな家庭を築いて温和に生きていきたいな......と思う反面、なんか国際的に活躍できるようになりたいなと思ったり、あんまり固まってないんですけど(笑)。

――アメリカでの生活はコロナ禍によって予期せぬ形で終わってしまい、帰国を余儀なくされてしまいましたが、アメリカでの生活自体は楽しかったですか? また海外で生活してみたいという想いは?

楽しかったですね。いまは行ってみたいところだらけです。完全に味をしめましたね(笑)。だから、しいて言うなら"旅行者"になりたいです。沢木耕太郎さんみたいに。

――アメリカでの生活を綴ったnote(https://note.com/keiichikimura)がすごく面白いので、ぜひ旅をしながら文章を書き続けていただきたいです。

ありがとうございます(笑)。書いてて思うのは「経験しないとこれって書けないな」ということなんですよね。がんばります!

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インタビュー/黒豆直樹  撮影/祭貴義道

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