WOWOW所属の車いすバスケットボール男子日本代表3選手が振り返る、銀メダルを獲得した東京2020パラリンピック
人事部 古澤 拓也 / 人事部 鳥海 連志 / 広報・IR部 豊島 英
東京2020パラリンピックで快進撃を続けた車いすバスケットボール男子日本代表から、WOWOWに所属する豊島 英(とよしま あきら)選手、鳥海 連志(ちょうかい れんし)選手、古澤 拓也(ふるさわ たくや)選手の3人が登場!リオデジャネイロ大会が終わってからの5年間や、東京大会で勝ち進んでいった中での心境、銀メダル獲得を経ての想いなどをたっぷりと語った。
「メダルを獲る」と言い続けてきた5年間
──2012年のロンドン大会と2016年のリオデジャネイロ大会ではともに9位という成績に終わった車いすバスケットボール男子日本代表でしたが、新型コロナウイルス感染症の収束が見通せずに1年延長して開催された東京2020パラリンピックで銀メダル獲得という結果を残しました。
豊島 開催されるかされないかの不安の中でトレーニングを積んできたので、まずは無事に開催されたこと、そして全試合をやりきれたこと、チームで積み上げたものを発揮できる場があったことが本当にうれしかったです。関係者やボランティアの方たちをはじめ、多くの方たちに感謝しています。
僕たちはリオが終わってから「メダル獲得」を目標に掲げて5年間やってきましたが、その間もたくさん負けて、苦しい思いもして......それでも「メダルを獲得する」と言い続けて、人生を懸けてやってきたことなので、銀メダルが獲れたのは何よりもうれしいです。
鳥海 大会期間中も毎日PCR検査を行なって、感染症予防を徹底しながらの日々で......本当にたくさんの方たちが、僕ら選手たちのために動いていただいていることを実感しながら過ごしていました。あらためて感謝の気持ちをお伝えしたいです。
僕はリオからなかなか結果が出ない中、それでもずっと「メダルを獲ります」と言い続けてきましたが、そういった僕に対して、見ていただいている皆さんが疑問を持っていないだろうか?というモヤモヤも多少なりともありました。それでも「責任をもって言い続けることが大事なんだ」と強く思いながら過ごした5年間だったので、銀メダルという結果を残せたことで何よりもホッとしたというのが一番です。
決勝のアメリカ戦で負けはしましたが、あの日あの瞬間に僕たちが出せる最高のパフォーマンスは発揮できたと思っています。2位にふさわしい試合をしたと思うので、僕としては決勝も含めて全試合が誇れるものになりました。
古澤 コロナ禍で不安を抱えながらトレーニングすることは、すごくしんどい時間でもありましたが、それでも関係者の方、スタッフの方たちのサポートのもと、そのときにできる最高の環境で常にバスケットボールをやらせていただいたことに感謝しかありません。
僕にとっては初めてのパラリンピックでしたが、コロナ禍で開催が延期したこともあり、最後の1年はいろいろと考えることも多かったです。それでも、僕にとっては家族のような存在だった日本代表チームと一緒に頑張ってこられたから、しんどい時期も乗り越えられたんじゃないかと思います。
加えて、大会が始まって勝ち進むごとに応援してくださる方が増えていったのは、とても心強い出来事でした。最後までチーム全員で戦えて、応援してくださる方々も一緒に戦ってくれているような気持ちになれた大会だったと思います。
写真左:古澤 拓也 / 写真中央:鳥海 連志 / 写真右:豊島 英
──開催の延期が発表されてからの1年、そして大会直前まで本当に開催されるかどうか分からない状況の中で、豊島さんはキャプテンとしてチームのモチベーションをどのように保っていったのでしょうか?
豊島 特に最初の緊急事態宣言のときはチーム練習がまったくできなくて、いつから再開されるかも、次の合宿がいつになるかも分かりませんでした。そんな状況だったので、選手たちが孤立しないようにオンラインでのミーティングを全員もしくはグループに分けて行ない、「自分たちはバスケットボール選手である」とか「つらいときに支え合える仲間が自分には居る」ということをあらためて認識できるように意識しました。
──練習できない状況に焦りはありましたか?
鳥海 僕はなかったです。バスケット漬けだった日常から一転して、ずっと家にいるようになって......「東京パラリンピックでメダルを獲る」と"勝つためのバスケットボール"を求め続けてきた中で、ふと原点に戻れた時間でした。もともと楽しくて始めたバスケットボールで、だからこそ続けていられるんだと再確認できたし、「またバスケットボールをやりたいな」と思える時間になりましたね。
古澤 僕も同じです。緊急事態宣言が出る前の4年間、東京パラリンピックに向けて走り続けてきた中で、一度歩みが止まったことで......「バスケットボールをやりたいな」という感覚を久しぶりに感じることができました。一方で、それまで高いレベルでメンタルを維持していたので、練習が再開したときにそこまで気持ちを戻すことができるかな?と少し不安があったのも事実です。でも、練習が再開してみんなに会ったときに、そういった不安は自然となくなって、すぐに戻ることができました。
──豊島さんも以前のインタビュー(https://corporate.wowow.co.jp/features/content/2437.html)で「メダルを獲る」と断言されていました。古澤さんの言う「高いレベルのメンタルを維持する」というのは、豊島さんや鳥海さんの"メダルを獲ると言い続ける姿勢"に重なるのではと思うのですが、豊島さんはこの5年間どのようにモチベーションを保ち続けてきたのでしょうか?
豊島 もちろん、ずっと「メダルを獲る」という想いを持ちながらやってきましたが、何よりも2人と状況が違うのは......僕は東京大会で引退しようと思っていたことです。結果を残して引退したかったので、「もうこの大会で結果を出すしかない」という想いでやってきました。
チームのこともありましたが、僕個人の想いは明確だったので、コロナ禍であろうと、大会が終わるまで必死に「今できることをやるしかない」と思って走り続けることができたんじゃないかと思います。
「チームのためにできること」だけを考えてきた日々が結果につながった
──東京パラリンピックが始まり、一つ一つ勝ち進んでいく中で、チームはどんな雰囲気だったのでしょうか?
豊島 過去の大会と比べても、雰囲気はとても良かったと思います。勝っているからというのもありましたが、ひとりひとりがお互いを信頼し合い「全員で勝つ」という気持ちで一心になっていたように思います。負け試合が多いとどうしてもチームの雰囲気も悪くなりますが、今大会は初戦で勝った勢いのまま決勝までいけた印象です。
──鳥海さんは17歳で出場したリオデジャネイロ大会のときと比べていかがでしたか?
鳥海 リオのときは、英さんをはじめ年齢の近い先輩の後ろについていきながら「試合に出て結果を残したい」と思って臨んでいましたが、なかなかうまくいかなくて感情的なアップダウンが激しかったことを覚えています。
その後、英さんがキャプテンになって、率先して"チームのためにできることを"を示してくれたことで、ひとりひとりがお互いを思いやり、気遣いながら考えていくようなチームへと変わっていったんじゃないかと思うんです。そういったことが本番での雰囲気やチームメンタルにつながって、すべてが良い方向へと進んだ大会だったと感じています。
古澤 これまで出場してきた大会と比べても、今回が一番、みんながチームの勝利のために動いていた印象があります。ただそれは、英さんが合宿でいつも言っている「チームみんなでやるべきことをやる」ということをパラリンピックでもやり通しただけというか......これまでみんなでやってきたことをいつも通りに行なっただけなので、特別な感じはしなかったかもしれません。いつも通りチームで良い準備をして、チームのためにみんなが頑張れたという印象です。
──今大会をあらためて振り返って、特に印象に残った試合は?
鳥海 予選リーグの韓国戦は、相手のエースを抑えることにフォーカスを当てて試合に入りましたが、それがうまくいって勝てた印象がありました。今大会の僕らのテーマの一つである"ディフェンスで世界に勝つ"ということのスタートを切れた試合として、僕は印象深かったです。
それと、準決勝のイギリス戦ですね。"ディフェンスで世界に勝つ"ことともう一つ、"トランジション(攻守の切り替え)バスケット"が僕たちのテーマとしてあったので、それらをチーム全体で表現できたのがイギリス戦だったんじゃないかと思うんです。特に後半は「チームのテーマがめっちゃできてる!」と思いながらプレーしていましたね(笑)。
古澤 僕は予選リーグのカナダ戦と準決勝のイギリス戦かな。初戦のコロンビア戦では僕はあまりプレータイムがなかったんですが、チームが勝つことが自分の中で最優先だったので、「常に良い準備をしておこう」と思い描くことができました。
そして3戦目となるカナダ戦で僕のプレータイムが増えたんですけど、「プレータイムが増えてうれしい」とかではなく、「チームのために自分の役割をしっかりやろう」と思って頑張れたからこそ、後半まで自分の役割が全うできたんじゃないかと思うんです。この5年間「チームのために何ができるか」ということだけを考えて走ってきたから、最後まで立つことができた試合だったんじゃないかと思っています。
豊島 僕は、もちろん決勝のアメリカ戦もですが、準々決勝のオーストラリア戦と準決勝のイギリス戦でしょうか。オーストラリア戦だけスターティング5から外れたんですが、出場したほかのメンバーが結果をしっかり残して勝ちにつなげてくれて......上から目線の言い方にはなってしまいますが、「本当にチームが成長しているな」と感じた試合でした。
イギリス戦は、前半が終わったときは33-36で負けていましたが、「このまま日本代表らしい試合を続けられたら逆転して勝てる」と特に強く思った試合でした。それまでの試合で見せてきた「40分を通して最後に勝つ」という日本のスタイルをこの試合でも絶対に貫けると実感しましたし、実際に逆転勝利できてうれしかったです。
──決勝のアメリカ戦はいかがでしたか?
豊島 連志も先ほど言ったように、そのときにできる自分たちの最高のパフォーマンスを発揮できたと思っているので、銀メダルでも僕は満足しています。パラリンピックが始まって、選手村に入ってから練習試合をしたときは、いつも通りボコボコにやられていて(笑)。それを経ての決勝で......準決勝のイギリス戦までを終えての良いイメージとチームの雰囲気、勢いが決勝の舞台でも出せたのかなと思います。
まあ......悔しいんですけど(笑)、決勝の舞台で点差が離れることなく、日本がリードする場面もあった。そういったバスケットボールを日本中にお見せできたのは、何よりも良かったと思います。
──あらためて振り返って、「東京2020パラリンピック」とはどんな大会でしたか?
豊島 まずはとにかく、無事に開催されて銀メダルを獲れてホッとしました。この結果を継続するのは大変だと思いますが、日本のバスケットボールが世界に通用することを証明できましたし、それがモチベーションにもつながると思うので、そこは後輩に託したいと思います(笑)。
僕自身は引退を決めましたが、今回のパラリンピックで銀メダルを獲れたことで日本中が盛り上がってくれたので、それらを無駄にしないためにも車いすバスケットボールの普及や発展に力を入れていきたいと強く思った大会でした。結果が出せたことで僕自身、次のステージへ向かう踏ん切りが付いたと感じています。
鳥海 僕はホッとしたと同時に、「さあ、これからどうしようか」という気持ちにもなりました。むしろそっちのほうが大きいかな? 英さんが引退を発表して、上の世代がどれだけチームに残るか分からない状況で......世界の強豪として居続けることが何よりも大切だということは分かっているんですが、それってかなり難しそうだなという不安と、そこにチャレンジできるワクワクが同居している感じです(笑)。
これから僕らが作るチームでどれだけ結果をつかみにいけるだろうか......新しいチャレンジになるだろうなと大会が終わったときに感じました。
古澤 今大会で感じたのは......メダルが獲れたことが、自分が想像していた以上にすごくうれしかったということです。一方で、決勝のアメリカ戦で、僕はゲームの鍵となる時間帯に3ポイントシュートを打って外しているんです。
たらればの話になってしまいますが、「あのシュートが決まっていたら」とやっぱり思いますよね。そのことを僕は宿題として次まで持っていかなければならない。英さんが言っていた通り、選手たちが人生を懸けてやっている中で、そのシュートをちゃんと決められる器のある選手になりたいとあらためて思いました。
「バスケットボールに集中できるところに就職したい」と思いWOWOWを選んだ
──車いすバスケットボールとの出会いや、WOWOWに入社したきっかけ、人生で大切にしていることなど、豊島さんには以前のインタビュー(https://corporate.wowow.co.jp/features/content/2437.html)で伺いましたが、鳥海さん、古澤さんにも伺いたいと思います。まず、車いすバスケットボールとの出会いについて教えてください。
鳥海 中学校の女子バスケットボール部のコーチが、車いすバスケットボールの審判をされている方で、僕を見つけて声を掛けていただいたんです。それで、近くのクラブチームに見学に行って、体験したのがきっかけです。
もともとバスケットボールは好きでしたが、初めて競技者としてスポーツに関わることができる機会を得られたことや、バスケットボールの楽しさ、車いすでバスケットボールをやることの難しさや面白さを知って......周りでシュートをばんばん決めている選手や、めちゃくちゃスピードが速い選手を見たときに「悔しいな」という感情も自分の中に湧いてきたので、それからバスケットボールにのめり込みました。
古澤 僕はもともと野球をやっていましたが、12歳のときに脊髄空洞症で車いすユーザーになったんです。それで母が野球以外に楽しめるスポーツを探してきてくれて、車いすテニスと車いすバスケットボールを始めました。
しばらく両立していましたが、高校3年生のときにU-23世界選手権があったのと、東京パラリンピックの招致が決まったことで、車いすバスケットボールを選びました。車いすユーザーになったときに「どの競技でもいいからパラリンピックでメダルを獲る」と目標を立てていたので......連志をはじめ、同世代の選手が一番いた車いすバスケットボールでみんなと一緒に東京パラリンピックで活躍したいと思ったんです。
鳥海 そうなんだ。初めて聞いた(笑)。
古澤 そうだっけ?(笑)もともと僕は「野球部に入って甲子園に出たい」という目標があって。車いすユーザーになってもそういった想いは変わらず、その中でも同世代と一緒に部活のように頑張ることができたのが車いすバスケットボールだったので、楽しかったですね。
──鳥海さんと古澤さんは、同世代でライバルでもあった?
古澤 そうですね、僕はライバルのつもりでした。
鳥海 ライバルすぎて、仲が悪い時期もありましたよ(笑)。ね?
古澤 ははは! 私生活まで引っ張ってね(笑)。でも、それを乗り越えたからこそ、仲良くなったんだと思います。
──お二人がWOWOWに入社した理由についても教えてください。
鳥海 リオの当時、一番面倒をみてくれていたのが英さんで。進路についても聞いてくれていましたが、僕は人に相談しないタイプだったんです。それでも「言ってくれないと分からないよ」ってずっと言ってくれていたし、僕が相談するときは親身になってくれて......ほかの選手よりも想いが強かった先輩なので、僕が勝手に英さんの背中を追っていた感じなんですね。
それに、リオの直後から英さんは海外リーグに参戦して活躍されていたので、そういった姿を見ている中で、「僕もバスケットボールに集中できるところに就職したい」と思って英さんのいるWOWOWを選択肢に入れました。英さんみたいに海外に挑戦できるチャンスをくれる会社というのが、僕の中では大きかったので......結果的に英さんの後を追うことになりました(笑)。
古澤 僕の場合は......U-23とA代表の合宿や遠征が重なって、大学の学業と競技の両立が難しくなったんですね。それで英さんに相談したら、「今学業を辞めて就職するならいろいろ話を聞いてあげるけど、大学卒業を目指していたんだったら諦める必要はないんじゃない? 編入っていう選択肢もあるよ」と言ってくれたんです。それで桐蔭横浜大学に編入することを決めたという経緯がありました。
その後就活が始まって、また英さんに相談したときにWOWOWの魅力について説明してくれて。12歳のときに北京パラリンピックが開催されたんですが、実はそのときにWOWOWでやっていた車いすテニスの国枝慎吾選手のドキュメンタリーを見たことが、僕が車いすスポーツを始めるきっかけだったんです。
そういったつながりもありましたし、英さんがいるという安心感や......連志にも相談して。競技に集中できることや、会社の雰囲気、環境といった自分が求めているものを得るにはWOWOWが一番良いんじゃないかと選択しました。
──豊島さんから見て、お二人はそれぞれどういう後輩ですか?
豊島 連志とは日本代表の合宿で同部屋になる時期が続いて、ずーっとついてきて(笑)。10歳離れていますが、その間の世代があまりいなかったので、弟のようにかわいがりながら面倒をみてきたんですけど......大学に行くか就活するかで悩んでいると相談されたときも、車いすバスケットボールのトップを目指してやっていくのであれば、アスリート採用として理解のある会社に入って、日本代表として活躍してほしいと思っていました。だからこそ、理解のあるWOWOWで一緒に成長できたら本当にうれしいなと思っていたんです。
──古澤さんについてはいかがでしょう?
豊島 古澤も本当に魅力のある選手で、次の世代として鳥海と一緒に日本代表を引っ張っていく中のひとりだと思っていて......すでに引退を考えていた僕には、「ここでWOWOWの車いすバスケットボールを途絶えさせたくない」という想いもあったので、できればWOWOWとつなげたいと思っていました。
社内だけでなく、社外に対しても「WOWOWには車いすバスケットボールの選手が3人もいる」と注目してもらえるだろうし、車いすバスケットボールを通して会社を知ってもらえますから。今の時代、そういった企業が社会に求められているとも思うので......2人を引っ張ってきました(笑)。
鳥海・古澤 ははは!
豊島 引っ張ってきたわけじゃないんですけど(笑)、声を掛けました。僕としても仲間が増えてうれしかったです。
「粉骨砕身」「優れるな、異なれ」。それぞれが大切にしている想いとは――
──豊島さんは以前のインタビュー(https://corporate.wowow.co.jp/features/content/2437.html)で「人生で大切にしていること」について、「"ぶつかる壁はあっても、乗り越えられない壁はない"という言葉は常に意識している」とおっしゃっていました。お二人は何を大切にしていますか?
古澤 競技の面だと、身を砕いてでも努力して結果を得る「粉骨砕身」という言葉が僕は好きなんです。人生においては「Let it be」ですね。ビートルズが好きなので、Let it beが自分の中の指針というか......なすがままにとか、自分らしさとか、人とは違う独特な雰囲気といったものを崩したくないと思っています。
鳥海 僕は「優れるな、異なれ」という言葉ですね。僕も以前は英さんと同じく持ち点(※)2.0点の選手だったんです。当時は「東京パラリンピックでスタメン出場する」というのが個人的な目標でしたが、そのためには同じ持ち点の英さんを超えないといけなかったんです。だから「英さんをどう超えよう」ということばかり考えていたんですね。そんな中で、英さんより0.5点上の2.5点の選手になってしまって、さらに難しい状況になったんです。
そんなときに、YouTubeでいろいろなスピーチを見ていて出会ったのが「優れるな、異なれ」という言葉でした。英さんという優れている選手の後ろを追っても、その道は英さんが先頭で走っているんだから、自分がトップになることはない。だったら、異なった道で自分を磨いていくことで、その道の先頭になればいいという考え方ですよね。
それまでは英さんのプレーを「何か盗めるところはないか」と思いながらずっと見ていましたが、いろいろな人のプレーを見て盗んで、"鳥海連志のプレー"を表現できればスタメンは狙えるんじゃないかという考えに行き着いたんです。今でもそれは僕の中で大切にしている言葉ですし、僕なりのプレーや僕らしい色というものに一番こだわっています。
※ 車いすバスケットボールの「持ち点」とは
障害の重い選手も軽い選手も等しく試合に出場するチャンスを与えるため、車いすバスケットボールの選手には各々障害レベルの重い者の順から1.0-4.5の持ち点が定められている。試合中コート上の5人の持ち点の合計が14.0を超えてはならない。
──ところで、豊島さんは「東京パラリンピックが終わったら引退する」ということを、いつ頃から決めていたのでしょうか?
豊島 2020年の東京パラリンピック開催が決まったときに「もしかしたら、そこで終わりたいっていう気持ちになるかもしれない」と思ったんです。2020年には31歳になっていることも計算して......ずっとバスケットボールだけの人生もいいですが、違う人生を歩んでみたいという想いもありました。長くバスケットボール選手としてやっていくよりも、結果を残して自分が納得したうえで引退したい。ピークのときにバスケットボール選手としての人生を終えたいと思ったんです。
というのも、リオが終わってキャプテンになって、怪我などで代表合宿に参加できないことが多くなってきて。自分の限界を突破できないような選手は、日本代表として続けていくべきではないと思っていたんです。今回は東京パラリンピックがあったので必死に頑張りましたけど(笑)、リオが終わって怪我をし始めてから「ここまでだな」と思うようになりました。
──お二人は豊島さんが引退を考えていることを、いつ頃知ったのでしょうか?
古澤 どうだろう? 結構前から言ってはいましたね。
鳥海 ジャブはもらっていました(笑)。
豊島 ははは!
鳥海 はっきりと「引退する」って聞いたのは、東京パラリンピックが終わってからでした。
──豊島さんが引退することについて、どう感じましたか?
豊島 「やっぱりね」って思ったでしょ?(笑)
鳥海 怪我が続いている中、これ以上続けるのは選手としてかなり苦しいだろうなとは思っていて。でも、ずっと追っていた姿ではあったので......感慨深かったですね。「一緒にプレーするのもこれが最後だろう」というのも薄々分かっていましたし、「東京パラリンピックに懸けている」という想いが誰よりも強いことも感じていましたから......今後、合宿でその姿を見られないのは寂しいなと思いつつ、でも、選手としてではなく新しい形で今後も支えてくれるんじゃないかなって、勝手に思っています(笑)。
古澤 リオに出られなくて悔しい想いをしている僕に「東京パラリンピックで一緒に頑張ろう」とポジティブな言葉をかけてくれた英さんが、引退を考えているというのは薄々感じてはいましたが......東京パラリンピックが始まる前の最後の合宿で同部屋だったんです。そのときに「あ、英さんはこれが終わったら本当に辞めるんだ」と理解しつつも、選手として頑張ってほしいなとも思っていたんですね。
でもやっぱり、リオが終わって怪我がある中で東京を5年間目指し続けてきて......自分のことだけでもしんどいのに、キャプテンとしてチームを引っ張ってきた英さんを見ているので「頑張ってほしい」とは言えないですよね。ただ、すごく寂しい気持ちがしました。僕は英さんと一緒にパラリンピックに出たのが一度だけなので......寂しいです。
──鳥海さんがおっしゃったように、今後も車いすバスケットボールに関わっていくのでしょうか?
豊島 そうですね。日本代表のサポートもしたいと思っていますし、全国の子どもたちや、健常者の方たちにも車いすバスケットボールの魅力を伝えて、少しでも競技人口を増やせるような活動をしていきたいと思っています。
──今回の銀メダルで日本の車いすバスケットボールの状況は変わりましたか?
鳥海 設備や制度の改革みたいなところまではいっていませんが、僕らみたいにアスリート雇用としてバスケットに集中できる環境が整ってきつつあるというのは感じています。仕事をしながらバスケットをやるのが当たり前だったこれまでの状況から、ちょっとずつ変わってきている感じがありますね。
僕よりも若い選手がたくさんいますが、彼らが「バスケットボールでご飯を食べていきたい」とか「日本代表で活躍したい」という想いを持ちやすくなったことは、ここ数年感じています。そのタイミングで銀メダルを獲れたというのは......まだ変化は実感できていませんが、車いすバスケットボール全体として良い方向に向かっていくんじゃないかと思っています。
──お二人は選手として、どんな目標を持っていますか?
鳥海 僕は3つあります。2022年は僕にとってU-23としての最後の大会になる世界選手権があるので、そこで金メダルを獲るというのがまず1つ目の目標です。2つ目は、パリパラリンピックでのメダル獲得です。A代表も来年世界選手権がありますが、先輩たちが抜ける穴を僕らが来年までに埋められるとは......今のところ思えていないので、パリ大会までに今の日本代表よりも力強いチームをしっかりと作り上げて、パラリンピックで結果を出すというのを目標にしています。
3つ目は、海外でのプレーです。2.5点の選手として、どれだけのチームからオファーをいただけるか、どれだけのサラリーを払ってもらえるか、いち選手として世界でどれだけ価値を高めていけるか、海外のリーグで試してみたいというのが目標としてあります。
古澤 僕は2つあります。1つ目は、パリパラリンピックでスターティング5として出場して、チームの中心となって活躍すること。2つ目は、英さんと同じように僕もピークで選手人生を終えたいという気持ちがあるので、パリ大会で金メダルを獲って、自分の感情を確かめたいですね。28歳で迎えるパリパラリンピックで金メダルを獲ったときに、どうするかを考えたいです。
【プロフィール】
豊島 英(とよしま・あきら)
所属チーム 宮城MAX(日本)
生後4ヶ月の時に髄膜炎を発症し、両足に障害を負う。車いすバスケットボールの「スピード」に魅了され、地元である福島県のチームで活動を始め、2009年、宮城MAXへ移籍。その翌年、日本代表に選ばれると持ち前の「スピード」を活かしたプレーで各世界大会で活躍した。2012年ロンドンパラリンピック、2016年リオパラリンピックの2大会連続で日本代表として出場し、2017年より日本代表キャプテンを務めている。2015年4月に、バスケに打ち込みたいとWOWOWに入社。2016-17シーズン(10月より翌年4月)、2017-18シーズン(同期間)は、ドイツのKöln 99ersにて活躍。その後、東京パラリンピックでメダル獲得に向け、活動拠点を日本に移した。2021年東京パラリンピックで銀メダル獲得。また、学校での体験会や講演活動を多くこなし、車いすバスケットボールの普及活動も行なっている。
【Instagramアカウント】 @tysmakira
【プロフィール】
鳥海 連志(ちょうかい・れんし)
所属チーム パラ神奈川スポーツクラブ(日本)
生まれつき両手足に障害があり、脛骨が欠損していた両下肢を3歳の時に切断。中学1年生の時に学校関係者に誘われたことがきっかけで、2011年に佐世保WBCで車いすバスケットボールを始めると、すぐに九州地方で頭角を現わした。2013年にはアジアユースパラゲームスに出場し、2位獲得に貢献。2015年に、三菱電機2015IWBFアジアオセアニアチャンピオンシップ(千葉)に出場すると、その後は日本代表に定着。2016年には、現役高校生として、チーム最年少でリオパラリンピックに出場した。その後は、男子U23日本代表チームの副キャプテンに抜擢され、2017年の男子U23世界選手権ではエースのひとりとして活躍し、オールスター5に輝いた。その後、2019年5月にWOWOWに入社。パラ神奈川スポーツクラブ所属。2021年東京パラリンピックで銀メダル獲得。テレビ番組や新聞、雑誌への出演なども多く、車いすバスケットボールの普及活動も行なっている。
【鳥海連志オフィシャルInstagramアカウント】 @iamrenshichokai / @chokaiwowow
【プロフィール】
古澤 拓也(ふるさわ・たくや)
所属チーム パラ神奈川スポーツクラブ(日本)
小学6年生の時に先天性の二分脊椎症の合併症が原因で車いす生活となる。最初に始めたのは車いすテニスで、その練習会場で行なわれていた体験会に参加したことをきっかけに車いすバスケットボールを始める。2013年、高校2年時にはU23世界選手権に出場。2016年、U23日本代表チームのキャプテンに就任した後は、翌年に開催されたIWBF U23世界車いすバスケットボール選手権(カナダ・トロント)にて、キャプテンとして日本代表チームを牽引し、「世界のベスト4」へと導き、個人としてはオールスター5にも選出された。翌年の2017年にはIWBFアジアオセアニアチャンピオンシップで、日本代表として公式戦デビューを果たした。大学を卒業後は、2021年4月にWOWOWに入社。現在、新入社員としての業務にも取り組んでいる。パラ神奈川スポーツクラブ所属。2021年東京パラリンピックで銀メダル獲得。
【古澤拓也オフィシャルInstagramアカウント】 @takuyafurusawa7
取材・文/とみたまい 撮影/祭貴義道