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「継続」と「発信」、「創意工夫」と「勇気」が共生社会を生む! ノーバリアゲームズの企画に携わる元パラリンピアン・野島弘の挑戦!

「継続」と「発信」、「創意工夫」と「勇気」が共生社会を生む! ノーバリアゲームズの企画に携わる元パラリンピアン・野島弘の挑戦!

長野・トリノパラリンピック アルペンスキー日本代表、ノーバリアゲームズ・アドバイザー 野島弘

2019年6月、東京・日比谷公園で初めて開催されたユニバーサルスポーツイベント【ノーバリアゲームズ】。WOWOWがIPC(国際パラリンピック委員会)との共同プロジェクトで制作してきたパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ『WHO I AM』に端を発し、性別・年齢・国籍・障害の有無を問わず誰もが参加できるイベントとして開催され、大盛況となった。

このイベントの企画にアドバイザーとして携わり、当日は自らもゲームに参加していたのが、長野およびトリノパラリンピックのアルペンスキー日本代表で、現在は自身が創設した一般社団法人ZENをベースに、競技の普及育成や障害のある子どもたちの自立支援に関わる活動を展開している野島弘。

そんな野島氏に同イベントの魅力や自身の活動、さらに今後の“共生社会”の在り方について話を伺った。

32歳で始めたチェアスキー 「悔しさ」がパラリンピアンを作った!

――そもそも野島さんがチェアスキーを始められたきっかけを教えてください。

僕は、32歳からスキーを始めましたが、その4年くらい前から兄弟に誘われていました。当時はスキーバブルでしたからね。でも、スキーをするような雪国に車いすで行ったら動けないだろうな、と思い、断り続けていました。他人の手を借りて遊ぶのは、面倒くさいなぁって。ずるい大人の魔法の言葉で「仕事が忙しくて」と言い続けていました(笑)。

そうしたら、弟が、車いすの人が乗るチェアスキーを借りられる先の情報を入手してきて「ちょっと電話してみるよ」と言ったかと思えば、我が家にいきなり大きな箱が届いて。箱を開けてみたら、ゴッツいのが入っていたんです(笑)。

その頃は千葉の船橋にザウスという屋内スキー場があり、そこであれば簡単に行くことができるので行ってみました。スポーツには自信があったので、スキーなんて簡単だと、たかをくくっていましたが、滑っては転んでの繰り返し。うまくいかないことが本当に悔しくて...。(熱が入ったのは)そこからですね。「もう1回、連れて行ってくれ」って頼んで。

――新しいスポーツを始める年齢として、32歳というのは決して若くないですし、そこから腕を磨いていくというのは大変だったのでは?

僕は、障がい者というのは、障がい者になった時に一度、生まれ変わっていると思っているので、年齢は関係ないと思っていましたが、仕事をしながら没頭するのが難しいところでしたね。

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――趣味で楽しむのではなく、競技者として練習を積んで、パラリンピアンになるというのは、相当大変だったかと思うのですが...。

そうですね。競技に出ようなんて意識は、始めた頃はなかったのですが、兄弟がデコボコのコブを滑るモーグルが好きで、僕もそういう場所に連れて行かれたんです。

先ほども言いましたが、スキーにハマった理由のひとつは、上手く滑れなくて悔しかったことですが、もうひとつの理由が、集まってくるスキーヤーがみんな熱かったことだと思います。当時はまだ昭和。障がい者に対して、見て見ぬふり、気づかないふりをするような時代でした。友達はともかく、見ず知らずの他人が障がい者に話しかけてくることは日常生活ではほとんどない時代でした。でも、モーグルのスキー場に行くと、みんなグイグイ寄って来るんです。「このチェアスキー、どういう仕組みなの? どうやって滑るの? ちょっと、滑ってみせてよ」って(笑)。

当時のモーグルのスキー場は手作りで、みんなで、スコップで雪を運んで、コブを作って...そんな大変な思いで作った大切な場所を、スキーを始めたばかりの僕に「お前、行ってくれば」「滑ってきていいよ」って。同じスキーを楽しむ仲間として扱ってくれて、遠慮なくグイグイ来るのがホント心地よかったです。

でも、この人たちと同じレベルで一緒に「遊ぶ」ためには、死ぬほど練習して、もっともっとうまくなる必要がある、と思ったんです。だからその次の年から、車にありったけの荷物を積んで、北海道の手稲スキー場に行って朝から晩までずっと滑っていました。

手稲スキー場は札幌にある、(冒険家、プロスキーヤーの)三浦雄一郎先生も本拠地にしている場所で、そのスクールの方たちとも仲良くなりました。右も左もわからない状況の中、北側の急斜面へ連れて行ってもらったとき、「ここはどう滑ればいいの?」と聞くと、「とりあえず行け!」といった教え方でした(笑)。そこもモーグルの仲間たちと同じように、障害なんて関係なく、分け隔てなくスキーをとことん楽しむ環境でね(笑)。楽しみたいがためにやっているうちに、競技の方にも顔を出すようになり、そうしたら「長野パラリンピック・アルペンスキーの代表に選ばれました」との連絡が来たんです。

――急展開ですね。当時のチェアスキーの競技人口は今と比べると...?

大会自体にはスキーを始めた年から出場していましたが、その頃の方が今よりも競技者が多かったです。僕よりも年齢の高い選手に勝てないことが悔しくて...。長くやっているから、うまいのは当然なんですが、何も知らない僕は「なんで自分よりもオヤジに勝てないんだ?」と。それで毎年、レースに出ながら山にこもって練習をすることを繰り返していたら、97年の年末かな? (パラリンピック出場内定の)手紙が来たんです。

そういった意味で、パラリンピックにすごく興味があったかといわれると、そうでもなかったんです(笑)。「仲間と遊びたい」という気持ちの方が強かったですね。ただ、長野オリンピックでちょうど里谷多英さんが金メダルを獲るなど、モーグル界がものすごく盛り上がっていて、僕がパラリンピックに出られることを仲間がすごく喜んでくれたんです。そこで初めて「絶対、優勝するぞ」って思いましたね。

長野パラリンピック公式練習で重傷... 仲間と共に8年越しでつかんだトリノの切符

――パラリンピックには2006年のトリノ大会にも出場されていますね? 長野の後もずっと第一線で競技を?

はい。実は長野では開会式前日の公式練習で、調子に乗ってカッコつけて滑ったらケガをしまして...。首の骨を折ってヘリコプターで運ばれてしまい、試合には出場できなかったんです。僕は選手村には一泊しかしてないのに、その時に干したパンツは閉会式の日までずっと部屋に干されたままだったそうですよ(笑)。

しばらくは手も思うように動かせなくて、必死にリハビリをしましたが、2002年のソルトレークシティには間に合いませんでした。思うように動かない手をつねりながら内心、これ以上はもうムリだよな、もう競技をやめようかな、と真剣に考えだした頃に、ソルトレークパラリンピックから帰国した森井大輝選手(『WHO I AM』にも登場したアルペンスキーのパラリンピックメダリスト)が、成田から電話してきて「次のトリノは一緒に行きましょう」ってめっちゃ明るく言うんです。

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こっちは「そうだね、わかった、わかった」と初めは軽く流していましたが、そこから毎日、電話がかかってきて(笑)。そんなやりとりをしているうちに、「こいつともう1回、頑張ってみようかな」という気持ちになり、森井に「わかった。その代わり、これから4年間、俺に付き合えよ」と言って、一緒に挑戦することにしたんです。あいつは、僕より18歳下なんですが、イージーミスすると「何やってるんすか」って怒ってくるんですよ(笑)。「こんなクソガキに...」と思いつつ、4年間、一緒に練習してもらい、トリノに一緒に行くことができました。

成績としては、僕は惨敗でしたが、彼は銀メダルを獲得しました。あの時は自分のことのようにあいつのメダルが嬉しくて、それで満足した部分もあり、引退したんです。

引退を決めて初めてわかった周囲のサポートのありがたさとパラリンピックの価値

――パラリンピックに出場するというのはやはり特別な経験ですか?

正直なところ、やっている時は、自分のために自分ひとりで頑張っているつもりでした。森井選手をはじめ、仲間やライバルといった周りの存在があって、自分は出場できたということには、やめてから気づきましたね。

やめると決めた途端に、周りに支えられてきたありがたさを認識することができて、恩返しとして何かできることはないか? という気持ちが芽生え、それが現在の活動にもつながっているのだと思います。

村岡桃佳選手との出会いが切り拓いた子どもたちのための活動

――引退後は、チェアスキーの競技普及のための活動を始められたそうですね? きっかけを含めて詳しく教えてください。

引退前から日本チェアスキー協会の競技部の部長として活動していましたが、トリノパラリンピックの前年(2005年)に、村岡桃佳選手(※アルペンスキーヤー。平昌パラリンピックで大回転の金メダルをはじめ、5枚のメダルを獲得)が僕らのところに「スキーやらせて!」と遊びに来たんです。まだ小学校の3年生だったかな?

当時は、子ども用のチェアスキーがなく、彼女は大きな大人用のスキーで滑っていました。春スキーで、雨が降り、雪はグサグサのコンディションでしたが、「まだ滑りたい?」と聞くと、「うん!」と楽しそうに言う前向きな子でしたが、そんな彼女のスキーを見ると、「全然身体に合わないチェアスキーで滑っているのか」と改めて思ったんです。

そこで単純に「作ってもらおう」と思い、帰ってからメーカーや設計の方に「子ども用のチェアスキーを作って欲しい」と依頼したのですが、安いものではないですし、開発にも手間がかかるので、すぐには作ってもらえず、次の年も彼女は同じ大人用の道具で滑っていました。

これじゃダメだ、ともう一度、真剣にお願いして、3年後くらいにようやく開発してもらえました。(競技普及の活動を始めたのは)その経験が大きかったですね。彼女と出会ってなかったらやっていなかったと思います。

――スキー以外の競技の普及にも関わられているそうですね?

一般社団法人ZENという団体を立ち上げて活動していますが、それも村岡桃佳選手との出会いがきっかけですね。ひとりの子どもに大人が付きっきりでスキーを教えることは、競技の面だけを考えるとメリットですが、(違った視点からみると)小さな小学生ひとりが、僕らおじさんたちに混じって滑っているんです。

その後、少しずつ子どもが増えて、色々な子どもたちの話を聞く機会が増えましたが、「ここでは楽しく滑っていますが、学校では保健室登校なんです」という子や「学校ではいじめられていて...」という子もいて...。そんな話を聞いているうちに、学校ではつらい思いをしていても、せめてここでは子ども同士で楽しめる"子どもの社会"を経験させてあげたいな、と思うようになったんです。

村岡選手の時には僕もそのことに気づいていなくて、何もしてあげることができず、今でも申し訳なく思っているんですが、それもあって多くの子どもたちを集めて、子どもたちで協力し合ったり、競ったりできる環境を作ってあげたいと思うようになりました。

――そこで社団法人ZENを設立されたんですね?

実はそれも、ずっと二の足を踏んでいまして...。と言いますのも、僕は現場が好きなので、団体を設立して事務作業が増えるのがイヤだったんです(笑)。事務に追われて現場に行く機会が減るのは本末転倒という思いもありましたしね。でも、多くの人に「ここまで活動してきて、沢山の子どもが喜んでいるけれども、野島がいなくなったら誰がやるの?キッチリ組織化しないと悲しむのは子どもたちだよ」と言われて...。痛いところを突いてきますよねぇ(笑)。それで団体を設立することを決意しました。

二の足ばかり踏んでいるので「前進あるのみ」ということで「ZEN」という団体名にしました(笑)。組織化したからには活動も広げていこうと、子どもと遊ぶものとしては、"ハンドバイク"と呼ばれる手でこぐ自転車などをやっています。

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スキーは小難しいところがありますが、ハンドバイクはペダルをこぐだけで子どもが笑顔になる"魔法の道具"なんですよ。こぐだけで流れる景色が一瞬で変わり、顏にあたる風も変わり、車いすでは体験できない世界が一瞬で現れるんです。

――正直、それは車いすを経験したことのない健常者にはなかなかわからない感覚かもしれませんね。

そうかもしれませんね。自転車は、車いすとは全然スピードが違います。しかも三輪なので転ばないから安心です。夏も遊べますしね。他にも、子どもが遊べるものとしてはカヤックや車いすソフトボールなどもやっています。

――カヤックは、健常者でも普段、なかなか体験できないスポーツですが、楽しそうですね。

そうなんです。"共生社会"という言葉がよく使われるようになりましたが、正直なところ、右を向いても左を向いても共生社会なんてどこにもないんです。ただ、自然の中では、障害のある人にも、ない人にも同じように雨が降り、雪が降り、風が吹きます。(障がい者だからという)手加減のない自然の中こそが共生社会だと思っています。そこで子どもたちをのびのびと遊ばせてあげたいんです。

今後、"冒険クラブ"みたいなこともやりたいなと思い、北海道、宮城、広島、コロラド、グアムの仲間といろいろ計画しています。

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子どもたちへの教えは『ターンするな!』『転べ!』 大事なのは経験すること

――今の時代、健常者の親も、子どもに対して「ゆっくり! 転ばないように!」と接してしまいがちです。障害のある子どもに対しては、「より慎重に」という意識が働いてしまうのかな? と思いますが

その傾向はあると思います。特に知らない人は、まさに腫れ物に触るかのように慎重になりがちです。特にチェアスキーのガイドの場合、子どもを後ろからサポートするので、目を見ずにコンタクトをする必要があり、コミュニケーションが難しいんです。顔が見えないから、喜んでいるのか、怖がっているのか見えないのですが、そういう中で信頼関係を築き、安心安全に楽しませてあげるのがガイドさんの腕の見せ所でもあります。

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障害のあるお子さんの親は、すごく不安が大きいと思うんです。先ほど話したように、うちはガイドさんが手荒いですから(笑)。でも、その様子を見つつ少しずつ共感してくださっています。

先日、村岡選手のお父様と話をしていて「うちの娘の時は『真っすぐこい!』『ターンするな!』『転べ!』って教えでしたね」と言われました(笑)。もちろん、親御さんの理解がないとできないことですし、不安を覚えつつも容認してくださって、(村岡選手)本人も怖いと思いつつ、躊躇せずに進む子だったんですよね。

――転ばないようにと先回りするんじゃなくて、転ばせながら覚えていくんですね。

スキーは何よりも経験値が大切で、下からくる感覚に身体がどう反応するかが重要なんです。身体がたくさん経験を積んで、時速数十キロの中で一瞬にして自分で判断していくしかないんです。だから僕は、子どもの頃からテクニックを教えるのではなく、真っすぐスピードを出して進ませるしかないと思っています。

「こういうふうにしたら転ぶんだ」というのも経験値です。傍から見たら『ターンするな』とはどういうことだ、と思うかもしれませんが、僕は常にその子にとっての高いところを目指していますし、そこに到達するのにその子に合ったやり方は何だろうと、考えています。ターンをしない、というのはそのための過程なんです。最初にターンを教えてしまうと、子どもたちはスピードを出さなくなってしまいます。減速したくてもできないうちに、スピードを出すことを経験させてあげたいんです。

――技術は後からついてくる?

今は道具がいいので、ターンなんて後からいくらでも教えられます。競技としてスキーをやりたい子がいたら、その子を世界で戦わせてあげたいじゃないですか。ところが、健常者にも言えることですが、ジュニア時代は強くても大人になったらなかなか伸びない日本選手って多いんですよ。ジュニアの段階では基礎を固めた日本人が勝てるんです。でもフリーダムに経験を積んできた海外選手は、ジュニアの段階では総合力がなくて勝てなくても、その先の伸びが大きいんです。日本人は逆で、ジュニア段階で固められすぎて、その先に対する発想が乏しいんですね。

親の心理で言うと「うちの子は"放し飼い"にはできません。何もできないので、ひとりで生きていけるわけがない」と思いがちなんですが、それは子どもが自立していないからであって、自立させてあげればいいんです。そうした思いもあって、今やっているのが「電車でGO!」というプロジェクトです。

子どもの自立に一番必要なものは...親の勇気!

――子どもの自立心を養うプロジェクト? 詳しく教えてください。

初級、中級、上級の3つのクラスに分けて行なっている企画の初級にあたるのが「電車でGO!」なんです。

上級編は昨年の夏の例で言いますと、障害のある小学5年生と中学1年生を連れて、ニュージーランドでスキー合宿をしました。僕とサポートしてくれる大学生、子どもたち2人の計4人で道具を持って行き、スキーと日常生活をするというシンプルなものです。親御さんからしたら、子どもを送り出すのは不安だったと思いますが、帰ってきた子どもの顔を見て、すぐに「来年はいつですか?」とおっしゃっていただきました。

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中級編は春スキーのキャンプですね。中学1、2年生の子どもたち3人が、それぞれの地元から自分ひとりで新幹線を乗り継いで、新潟の湯沢まで来て、そこで4日間合宿をして、終わったらまた自分だけで帰るというプランです。同じくらいの年齢、レベルの子と滑ると競争心がわいてくるんです。たかだか4日ですが、ものすごく伸びるんですよ、これが。先ほども言ったように1から10まで基礎を教えるというよりは、3人を一緒に滑らせて「行ってこい!」と背中を押す感じなんですけど(笑)。

――そして初級編が「電車でGO!」?」

これは、みんながみんなスキーや運動が得意なわけではないので、そうでない子どもたちに対しても何かできないかと思い、始めたことです。自立というのは、親の庇護から離れることですから、電車で地元からひとつ隣の駅まで自分ひとりで来るというところから始めてみようと。隣りの駅で待っている僕のところに来てもらい、一緒にご飯を食べて、またひとりで帰るというだけのことです。

ごはんを食べながら、男の子だったら「カッコいい男になるためには?」とか「モテる男になるには?」なんて話をします(笑)。小学3年生の子を相手にノートに書き込みながらね。これも理由があって、「考える」習慣をつけてもらいたいからなんです。そこに「正しい答え」は必要なく、どうすればいいか、自分の頭で考えてほしいのです。

ある女の子は「私はいつも周りのみんなにお願いばかりしているので、頼れる女になりたい」って話してくれました。そういう話をすることで、初めて自分で「そのためにどうしたらいいのか?」と考えるんですね。

――そうした試みを重ねる中で、子どもたちはどう変化していきますか?

駅で落ちあって「さぁ、ごはん食べに行こう」と言うと、最初は車いすで僕の後ろを付いてくるんですね。2回目になると、ちょっと見えるくらいのところで並走する感じです。3回目になると隣でしゃべりながら進むようになりますね。親御さんと話をしても3回目くらいになると「今日は自宅から駅までもひとりで行ったんです」と言われたりしますね。

――まさに自立ですね。

子どもの自立に一番必要なものは、実は親の勇気なのかもしれません。たったひと駅ですが、ネットを見ると車いすの人が暴言を吐かれたり、車いすを蹴飛ばされたりなんて話がいくらでもある中で、そんな社会に自分の子どもをひとりで出したくないじゃないですか?でも、親が勇気を持って「行っておいで」と言わなければ、子どもは来られないですから。

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もうひとつ、大事なのは地域や第三者の協力ですね。例えばファミレスでごはんを食べたら、自分の分は自分で支払いをさせるんですが、子どもですからスムーズにいかないこともあります。「これとこれの会計をお願いします」「○○円です」とやっているうちに、後ろに列ができてしまったら、親はつい助けてあげたりしちゃうじゃないですか。でもそこで自分でやることに価値があると思いますし、障害の有無に関係なく、子どもが自分の力でやっていることを周りの大人が温かく見守ってあげることが必要なんですよね。

最近、小学3年生のある男の子と会う機会が多いんですが、その子に「他の子はまだ慣れてないけど、お前はもう6回目だからリーダーだからな。お前が他の子にいろいろ教えてやれよ」と言うと、その子もその気になって、自信を持って行動するようになっているんですよね。

――子どもたちが成長していく姿を見るのは楽しいですか?

そうですね。子どもたちの表情がどんどん輝いていくのが、僕から見ても分かるので、親からしてみるとさらに輝いて見えると思います。その様子を見て、親ももっと勇気が出ると思うんです。やっていることは簡単なことなので、続けていきたいですし、継続しないと価値は生まれてこないと思っています。子どもたちが、僕だけでなく、色々な人に会うようにするなどして、活動を広げていけたらいいですね。

十数年前に自ら企画・実行していた"ユニバーサル運動会"

――WOWOWの番組『WHO I AM』発のユニバーサルスポーツイベント 【ノーバリアゲームズ】との関わりについてもお伺いいたします。野島さんは競技の内容についてアドバイスをされるなどして携わっていますが、そもそもノーバリアゲームズに関わるようになったきっかけは?

とあるイベントで『WHO I AM』の太田慎也プロデューサーにお会いしたのがきっかけですね。『WHO I AM』は、先ほども話に出ました森井大輝選手が出演していることもあり知っていました。番組についてコメントを求められた時に、僕は「自分にはコメントできない」と答えました。僕のコメントで先入観を持つことなく、まっさらな状態で見て、何かを感じてほしいと思えるレベルの内容だったんです。

そんな中、『WHO I AM』の太田プロデューサーに会い、障がい者やパラアスリートのことをよく知らない中で番組を作りはじめたが、出会った選手たちの輝きと個性を知ることにより、番組で描くことが決まっていった話を聞いて「なるほど。そういう考えのもとで制作したから、こういう番組、映像が生まれたんだ」と納得しました。

太田さんとの話の中で、『WHO I AM』に登場したイタリアの車いすフェンシングのベベ選手(ベアトリーチェ・ヴィオ)の話があがり、彼女が地元でユニバーサルスポーツイベントをやっていることを知りました。

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実を言うと、僕も似たようなことを昔、やっていました。規模は小さかったのですが、仲間を集めて、障がい者も健常者もいる環境で、体育館で運動会のようなものを開催したんです。障害のある子どもたちが学校の運動会で競技に参加できない話などを聞いて、それであれば自分たちでやろうよ、という話になり、やりながら「こういうことをもっと大々的にできたらいいね」なんて話をしていたんです。もう十数年以上も前の話ですが。

なので太田さんの話を聞いた際に、自分が開催した運動会の話をし、「WOWOWで何かやることになったらぜひ手伝わせてください」とお伝えしました。とはいえ、実現はなかなか難しいだろうなぁ...と思っていたら、それから半年くらいで「やります!」との連絡があって(笑)。

障がい者を雑に扱うべし...!? 創意工夫が楽しさを生む

――具体的に野島さんがアドバイス、提言されたことは?

僕から言ったのは、主に障がい者の扱いについてですね。健常者の方にはなかなか分からないことも多いと思うんです。なので僕の立場から「雑に扱ってください」と(笑)。「これできるかな...?」「 あれは無理かな...?」ではなく、「こんな楽しいことがあります。じゃあ、どうすればそれができるかを考えましょう」と。

昨年のノーバリアゲームズでは、シーソーみたいなものを渡るゲームがあり、やってみたら結構、角度が急なことが分かりました。

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「これは危ないですかね?」と聞かれましたが、「ちょっと飛び出てしまうくらいがちょうどいいよ」って(笑)。障害がある身から言わせてもらうと、そういうのが逆に楽しかったりするんですよ。特に子どもはね。手厚く保護されて「大丈夫?」と言われるよりも、ガタンと転がっちゃった!くらいの方が楽しいんです。そういうことも含めて体験させてあげたいなと思いました。

――参加者も多く、大きな盛り上がりを見せましたが、実際に参加されてみていかがでしたか?

MCを務めた松岡修造さんも「こんな不安なイベントはありません!」っておっしゃっていましたが、完全に未知の世界でした。でもそう言いつつ、松岡さんは「絶対に成功させる」と思っていたでしょうし、僕も全く同じ気持ちでした。未知の世界に対してのワクワクしかなかったですね。

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「雑に扱っていい」と言われてもみなさん、なかなかそうはできないものです。なので、僕が現場で「こうやって運んじゃって大丈夫だよ」と言ってあげると「あ、それでいいんだ」と分かってもらうことができ、そうやってコミュニケーションを取っているうちに慣れてくるものなんです。

一番の醍醐味は「創意工夫」なんです。競技のルールを一から作り、障がい者も健常者もごちゃ混ぜで、しかもその日、初めて顔を合わせたメンバーで、その場で与えられたルールで競技を楽しまないといけないんです。大人の男性が、そこで初めて顔を合わせた子どもと仲良くする機会なんて、今の社会ではめったにない中、相手が車いすの子だったりするわけです。最初はどう接していいか分からないと思います。でも色々考えながら、創意工夫して一緒に遊び、勝った負けたでハイタッチしたり悔しがったりするようになるんです。

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「共生社会」という言葉ばかりが最近ひとり歩きしていますが、みんな共生社会がどんなものか分かっていないと思います。でもルールをゼロから作り、健常者も障がい者も一緒になって遊んだノーバリアゲームズのあの場は、まさしく共生社会と言えるものだった気がします。あれこれと難しいことを考えず、みんなで遊べる。それがノーバリアゲームズなのかなと思いますね。

「障がい者を障がい者にしているのは世の中の意識」

――先ほどの「子どもの自立に必要なのは親の勇気」というのと同様に、ノーバリアゲームズで問われているのは、社会や健常者の側の意識や関わり方なのかもしれませんね。

まさにその殻を取り払おうとしているのが『WHO I AM』シリーズであり、今までの「障がい者って大変だよね」「かわいそうな弱い人だよね」というイメージは、実は社会の意識の中にあるもので、当人たちに会ってみると全然違う、ということをこの番組が描いてくれているんです。障がい者を障がい者にしてしまっているのは、実は世間の意識なんだと。

太田さんは番組を作っている中でそのことに気づいたと言っていて、そういう考えの人だからこそ、僕も一緒に仕事したいと思いましたし、実際にノーバリアゲームズをやってみて「やっぱりそうだったんだ」と思いました。

「やってみたらできる!」という思いを多くの人に経験してほしいですし、今度はそれを発信していってほしいです。僕ひとりがああだこうだ言っても、たかがしれていますからね。その発信の輪が広がり、頭でっかちではない共生社会が広がっていけばいいなと思っています。

――そのためにWOWOWができること、野島さんが期待していることは何でしょうか?

「継続」と「発信」ですね。1回じゃただのお祭りです。昨年のノーバリアゲームズで、田中晃社長が「第1回ノーバリアゲームズ」という言い方をされていましたよね、しかも可愛いお孫さんの前で(笑)。だからこそ第2回、3回と続いていくことを期待しています。

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あとはWOWOWさんの持つ発信力です。ノーバリアゲームズの様子を世界に発信し、それを見た人が「共生社会って意外と簡単にできるんだ! 一緒に遊べばいいんだ!」と思ってもらえたら嬉しいですね。共通のコミュニケーション・ツールを持った大人と子ども、健常者と障がい者が一瞬にして仲良くなるのを実現してくれるのがノーバリアゲームズだと思っています。ノーバリアゲームズ自体が必要なくなるくらいの社会に変わるまで続けていってほしいと思っています。

向かい合って、相手を理解する!

――改めて、野島さんがスキーを始められた頃と比べて、社会の変化は感じますか?

感じますね。僕は障がい者になって40年ですが、少しずつ人々の意識も変わってきたと思いますし、ハード面も本当に変わったと思います。今後、さらに変えていくという意味では、障がい者側も変わっていかないといけない、とも思っています。

「みんなちがってみんないい」と言いますが、それは障害がある人が自分のことを「認めてください」とお願いするだけでなく、「認められない」という人をも認めることも意味するのではないか、と。今の世の中、そういう人は「悪い人」とされてしまいますが、断罪するのではなく、そういう人たちと向き合って、その人たちの思考を理解することも大切だと思います。「なんでそう思うのか?」「なんで認められないのか?」「どうしたら認められるのか?」――そこにアプローチしていくことも求められていくのだと思います。

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それは僕たち障がい者がより生活しやすい社会を作るために必要なことで、さっきお話しした「発信」に加え、僕らも色々な人たちをより「理解」していくことが大事なんだと思います。

――最後になりますが、野島さんが様々な活動をされる上で大切にしていることを教えてください。

「愛」ですね(笑)。いや、本当に。愛があるからこそ、いろんなことを平和に考えられ、笑顔になれるんだと思うんです。「LOVE&SMILE」という思いを自分の中に持ち続けていきたい、と思っています。

みんなで、愛と笑顔があふれる平和な世の中にしましょう!

撮影/祭貴義道

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